今日は、創世記の言葉に耳を傾けましょう。神から使命を受けたアブラム(後のアブラハム)は生まれ故郷を離れ、遠い国カナンの地に導かれます。そこで神は、彼とある約束をします。「あなたが、最後までわたしについてくるなら、わたしはあなたを祝福し、この地をあなたとあなたの子孫に与える」と。それまでのアブラムと神との関わり、信頼の中でなされた約束です。この神の言葉を受けて彼は旅立ち、神が示す地へと向って歩み始めます。彼が、その歩みの中で体験した事は私たちの想像を超えています。神が助けて下さらなければ取り返しのつかない重大なことになる失敗もあれば、神から大きな祝福を与えられる体験もありました。これらすべての体験によって、アブラムの信仰は深められ、そして彼の信仰は新しい段階へと導かれます。
「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(創・15・1)
「幻の中で、主の言葉が臨む」というのは、彼の内面において、神との深い出会いの体験があったということです。それは日常生活とは切り離された、彼の人生を根底から変える大きな出来事だったのです。「あなたの受ける報いは非常に大きい。」という神の約束の言葉に対してアブラムは戸惑い、直ぐには受け止められません。「なぜ、どうして……」という驚きの中で彼は問いを発しています。「主よ。あなたはわたしに、何を期待しておられるのですか。わたしには子供がありません。」神からの約束とは、数えきれないほどの子孫が彼に与えられ、この地は見渡す限りその子孫のものとなる……、という約束でした。しかし、この時点のアブラムには、まだ一人の子供もいません。人間の常識では考えられないことです。これは、アブラムが神の約束の言葉を信じられなくなり始めていた時の体験です。これまでも彼は、神の約束の言葉を信じて、行き先も分らずここまで歩んで来たはずです。しかし、いつまで経ってもその約束は実現しません。そのような試練の中で、あんな言葉を信じて歩み出した自分が愚かだったと思い始めているアブラムでした。こんなはずではなかった、あの選択は自分の間違いだったと思い始めている中での体験です。それはまさに、私たちの歩みと同じではないでしょうか。「信仰の父」と呼ばれるあのアブラハムの体験です。たくさんの恵みや祝福があると言われても…、困難に直面する度に倒れてしまう私たちです。先に進むことができない私たちは、そこでうずくまるしかありません。
実は、そこから先において最も大切な事が起ります。神は、彼がこの体験をするまで忍耐強く待っていました。アブラムが神と新しい段階に入る時…。それは、彼が信仰の喜びをのびのびと生きている時ではありません。そうではなくて、どん底の体験をしている時です。その中で、神の言葉が今まで以上に、より強く、より深く、彼の心を揺り動かすのです。神との関わりが浅い中は、このような問いかけも起りません。神の約束を信じて未知の世界へ旅立ち、予期せぬ苦難を体験しながら、そのギャップに苦しんでいる私たちに起ることです。大切なことは、その疑いや迷いを、直接神に向けて歩みなさいということです。答えは神からのみ来ます。自分の中だけで、あれこれと考えている間は何も得られません。神は、アブラムの問いかけにお答えになりました。彼を外に連れ出し、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と語っています。
人の思いと神の思いの違いをアブラムはここで思い知らされています。神の約束は、いつになったら実現するのか、神の恵みや祝福とは何なのか、こんなはずではなかった……という思い、それが人間の思いです。そこで私たちは、神の思いや計画を人間の思いで理解しようとしているのです。「アブラムは主を信じた」という言葉に注目しましょう。それまでも主を信じて歩んで来たつもりのアブラムでした。しかし、神を信じてここまで来た積もりの自分の根底にあったものは、神ではなく人の思いでした。それに気付かされたアブラムの姿です。彼の素晴らしさはここにあります。人の思いや経験からすれば、到底信じることのできない中で、彼は神に自分を委ねて歩む決意をしました。人の思いを遙かに超えた方として、神の言葉を受け止めました。信仰とは何であるかがここに示されています。私たちは、挫折の体験を通して大切な事を学びます。聖書が語る信仰は、アブラムの挫折の体験から始まっているのです。ここで語られていることは、彼がどんな立派な行いをしたかではなく、神をどのような方として彼が受け止めたかということです。
目に見える現実の厳しさの中で神の導きを疑い、「今さらわたしに何をくださるというのですか」という問いを投げかけるアブラム。それに対して神が、満天の星空を示し、人間の思いとは全く違う、神の圧倒的な力を示します。「あなたは、そこで躓いてはならない、そこに留まってはならない。立ち上がって歩き出しなさい。あなたの使命はまだ終わっていないのだから……。」この神のみ言葉によって再び歩み出す勇気が与えられました。自分の思いやこの世の常識によって神の約束を判断するのではなく、これまでの歩みの中でも、共に歩んでおられた神の姿に気付きなさいということです。人間の思いや感覚においては、何一つない信じられない中で、だからこそ、自分の思いを捨てることができたアブラムでした。もし、人間の物差しで測れるようなものにしがみついて、それによって信仰を生きようとするなら……、どこかで破綻します。それは、神の恵みを人間の物差しで測れる程度の小さなものにしてしまう生き方です。イエスが私たちに示す世界はもっと大きいものです。人間の分かる範囲で信じる世界ではありません。それは、信仰でも何でもありません。本当の信仰とは、私たちの物差しで神を測るのをやめるところから始まります。 神の祝福と約束によって与えられた彼の子孫たちは、その後どうなったでしょうか?異邦の国で寄留者となり、四百年以上エジプトで苦しめられました。再び戻って来るのは、四代目の子孫たちでした。これがアブラムになされた神の祝福であり約束です。神の約束がどのような形で実現されるかは神ご自身が考えてくださることです。その神の計らいの中で、救いのみ業は実現され完成されていきます。それは私たちも、この神の救いの計画に協力する者として選ばれているのです。それは、深い信仰の神秘です。その事を教えるために、神はアブラムの目の前で不思議なことをなさいました。
聖書の世界において、契約が結ばれる時、二つに切り裂かれた動物の間を契約者が通り過ぎる「契約の儀式」というものがありました。それは、どちらかがこの契約を破ったら同じような最期が待っているということの印です。(創世記15・17参照)この時、切り裂かれた動物の間を通り過ぎたのは神のみです。アブラムは通っていません。イエス・キリストの十字架は、このような神と人間との約束を前提としているものです。「煙を吐く炉と燃える松明」……、これも神の存在を象徴している言葉です。引き裂かれた動物たちの間を神ご自身が通って、アブラムと契約が結ばれたということです。神は、この契約を守る義務をご自身に課しておられます。この後も、イスラエルの民は何度も神の思いに背き続けてきました。しかし神は、この契約をどこまでも守り、イエスの十字架に到るまで、その約束を貫き通して下さいました。私たちのために引き裂かれたのは、イエス・キリストの体でした。私たちの信仰は、これによって支えられています。
世に救い主を生み出すために選ばれたマリアとヨゼフ。彼らが通った信仰の道も同じです。彼らの体験を通して私たちは、どうすれば光を見出すことが出来るか、希望を見出すことが出来るか、どこに愛を見いだせるかということを学んでいるのです。マリアもヨゼフも全てを理解し分った上でその使命を引き受けたのではありません。自分でも、分らない中でなされている“神の救いへのみ業への協力”を生きるものになって欲しいというのがイエスの切なる願いです。ここから、聖家族の困難な生活が始まります。