復活後の第2主日の福音は、復活された主が弟子たちに現れる場面です。イエス亡き後、弟子たちは戸に鍵をかけて閉じこもっていました。イエスが逮捕された時、恐ろしさのあまり、主を見捨てて逃げてしまった人々です。彼らは、恐れと失望の中で 家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。「全ては終わった」という無力感しかなかった事でしょう。そのような弟子たちの前に復活の主が現れ、彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように……」と言われます。これが復活の主の第一声です。自分を見捨てた弟子たちに対する恨みの言葉でもなく、彼らの平安を願う言葉であったことに心を打たれます。そして、十字架の傷跡をお見せになります。釘を打ち込まれた手の傷痕、槍で刺し貫かれた脇腹の傷痕。この傷跡をイエスは、あえて弟子たちにお見せになっています。それは、ゆるしているからです。深い傷を負わせた弟子たちに、その傷跡をはっきりと見せることによって弟子たちをゆるしていることを伝えておられるのです。イエスのこのゆるしは、不正をなかったことにしたり、見過ごしたりすることではありません。
イエスは人間の尊厳がないがしろにする罪の現実に対して激しく憤られる方です。私たちが忘れてはならないのは、「復活されたイエスの身体から、その傷跡は消えていない」ということです。そこから、新しい道が開かれるところに目を向けさせようとしているのです。この世の現実がどんなに不完全であっても、私たちのあるがままの姿がどれ程罪多きものであっても、私たちは復活された主を見つめながらゆるしを願い、立ち上がることが出来るという神からの保証です。そこで、本当のゆるし、本当の救いが何であるかを知らされるのです。
私たちの存在を、神はこれ程の思いを持って、かけがえのない存在として護り通してくださいました。それが、イエスの教えて下さった神の心です。あなたも、わたしも、決して失われはならない大切な存在なのです。そのままのあなたでよいから、わたしのもとへ来なさい……と招いておられます。この愛とゆるしの声が、私たちに生きる力を与えてくださいます。イエスの語る「ゆるし」とは、人間の力によって実現するゆるしではありません。人も自分もゆるせない、そのような私たちに対する神の「ゆるし」です。本当の平和はそこから生まれます。「あなたがたに、平和があるように」と言われたイエスは、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。この聖霊の助けと導きによって私たちは、どのようにして神の心に近づくかを教えられます。
ここで、アダムが神から命の息を吹き入れられて新しく生きる者となった(創世記2・7)ことを思い起こしましょう。閉じこもっていた弟子たちを立ち上がらせ、宣教の第一人者に変えたのは聖霊です。神からの息吹を受けて初めてその使命を生きる事ができるのです。
「ありのままのあなたで、わたしに従う者となりなさい。そして、わたしがいつもあなた方と共にいることを思い起こしなさい……」この招きの言葉があるから、私たちは自分の未熟さ、不完全さの中にありながらも勇気をもって立ち上がることが出来るのです。どんな困難の中にあっても、主が与えられる平和、主のみが与えることの出来るこの平和を奪うことのできるものは、どこにも存在しないのです。天に昇られたイエスをこの目で見ることはできません。しかし聖霊の助け導きよって、復活して生きておられるイエスが共にいて下さることを信じる恵みを頂いているのです。それが、見ないで信じる幸いな者の信仰です。福音書は、この言葉で締めくくられています。
「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ・11~25)
イエスはこのことを私たちに問いかけておられます。父なる神のもとに昇られたイエスを私たちはこの目で見ることはできません。聖霊の働きを受けて、慈しみ深い主のみ心に委ねながら、「主よ、あなたを信じて立ち上がる恵みを下さい!」と信仰告白をさせて頂ける者は幸いです。今日は、このいつくしみ深い主のみこころに出会った使徒たちの喜びを共に思い起こし祈る日です。