イエスは、教会を舟にたとえて説明しました。私たちは、この舟に乗って航海している者です。イエスは弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ」行かせたと書かれています。この弟子たちの体験が、今の私たちの体験とも重なってくるのです。イエスに「強いられて」舟を漕ぎ出した弟子たち。その中で学んだ大切なことを彼らは語り継いでいるのです。弟子たちがそこで学んだことは、神は私たちの心の扉をたたきながら、私たちの決心を促し、待っておられる方であるいう事です。時々私たちは、自分一人で信仰を生きられると勘違いしているかもしれません。しかし、それでは本当の救いにまだ出会っていないのです。私たちの信仰は、キリストの体である教会の中で、兄弟姉妹との交わりの中で深められ養われます。それが、イエスの望みでした。私たちが、イエスに出会うようになるのも、自分の意志によってではなく神に導かれながら、いろいろな人との出会いによって与えられる恵みだからです。

 元々漁師であった弟子たちですから、海の事は何でも知っていたはずです。どうして順調に行かなかったのでしょう。しかも、イエスに促されながら出発した舟です。そこで逆風に悩まされながら、前に進めず、悪戦苦闘しています。それは、私たちの姿でもあるのです。イエスの言葉に促され、自分の決断もあって漕ぎ出した舟であっても、沈みそうになることがあるのです。そこに、イエスはおられないと感じることさえあるのです。吹きすさぶ逆風の中でイエスを見失います。しかし、例え目には見えなくても、イエスは教会という舟の中におられます。聖霊降臨によって誕生した教会にイエスは確かにおられます。目に見えず、手で触れることもできない御方が、聖霊の働きを通して共におられるということを体験し、証しするために私たちは召されているのです。

イエスは群衆を解散させた後、祈るため山へ退かれました。(23節参照)ここにも大切な事が示されています。何を祈っておられたのでしょうか。私たちのために、執り成しの祈りをしておられるのです。それこそが、イエスが山の上で祈る目的でした。イエスは、逆風の中を歩む私たちのために今も祈っておられます。嵐の中で、湖を渡っていく弟子たちのために父なる神に執り成し、祈られたように……。それは、目に見える仕方でイエスがおられる以上の恵みです。これが、今の私たちに与えられている恵みです。逆風のために漕ぎ悩む地上の教会のためにイエスは祈っておられます。このイエスの祈りこそが、地上の教会を支えているのです。その祈りの中で、漕ぎ悩む人々をしっかりと見つめておられます。私たちが見なければならないのは、このイエスの姿です。イエスに乗り越えられない隔たりや妨げは何もありません。  

このイエスを見た弟子たちの反応はどうだったでしょうか。驚くべき事に、弟子たちは「幽霊だ」と叫び脅えています。聖霊の働きによって来て下さり、私たちを助けようとしておられるイエスに恐れを感じ、脅えているのです。これが弟子たちの、そして私たちの不信仰の姿です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない……」。脅える弟子たちに話しかけるイエスの言葉です。神がモーセにご自身をお示しになった時の言葉と同じです。神は、「わたしはある」(出エジプト3章参照)と宣言なさることによって、人間の思いを超えて存在し、今も働いておられる姿をモーセに示しました。その言葉がここでイエスによって弟子たちにも告げられています。逆風の中で漕ぎ悩み、共におられる神を見失い脅える弟子たちに、イエスはまことの神としてのご自身の姿を示しておられます。そのイエスが、弟子たちの舟に乗り込んでおられるのです。それを弟子たちが知った時、嵐は静まりました。神の望みによってこの世へと漕ぎ出された教会は、何があってもイエスによって守られ、導かれています。

 助けるために、近づいて来られるイエスを見た弟子たちの反応はどうだったでしょうか。心が鈍くなっていた弟子たちは、イエスを見て幽霊と叫びながら脅えています。弟子たちがそうであったなら、私たちは尚更です。イエスの奇跡は、神が人々に与えようとしておられる救いのしるしです。奇跡や癒しだけを求めてイエスのもとに来ても、その目的である恵みにまでは導かれません。心が鈍くなっていることの現れです。

教会の歩みと神のみ心の実現を妨げている逆風とは何でしょうか。私たちを悩ませ、みこころの実現の邪魔をしているのは「人間の思い」という逆風です。その中でイエスは、私たちの十字架を負い、赦しを与え、教会という舟に乗り込ませて下さいました。いつの時代でも、地上の教会には逆風が吹きすさんでいます。その中で漕ぎ悩む私たちの現実を受け止め、御父に執り成し、祈っておられるイエスの姿が私たちに見えているでしょうか。「主よ。助けてください」と叫ぶペトロにイエスは、「安心しなさい。恐れることはない。」おっしゃいました。「信仰の創始者であり完成者であるイエス」(ヘブライ12・2参照)から目を逸らさずに、イエスと共に歩む恵みが与えられますように……。