イエスが歩まれる道は十字架への道です。今日の福音の直前でイエスは、自分に従う者の歩みも同じである、(16・24参照)と語っています。そして、今日の福音箇所に繋がります。この、主の変容の出来事にはどのような意味があるのでしょうか。「主の変容」といっても、それはイエス本来の姿です。そして、この姿を見ることが出来たのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけです。この後、この三人はゲッセマネの園で捕えられるイエスの姿を目撃することになります。イエスの栄光の姿を見た三人は、血の汗を滴らせながら苦しむイエスの姿をも見ることになるのです。このことによって、イエスの栄光と十字架とは切り離すことができない関係にあることが示されています。十字架の苦しみに向って歩み始めるイエスを通して、神の救いの計画が明らかにされました。

 光り輝く主の姿…。それは不思議な出来事です。しかし、それはイエス本来の姿です。そこにモーセとエリヤが現れ、これからイエスが受ける受難について語り合っています。モーセは出エジプトの指導者、エリヤは預言者の代表です。律法と預言者を代表する旧約の二人がイエスと語り合っているところが重要です。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という父なる神の思いが、そこで宣言されています。私たちが聞かなければならいのは、人となられたこの神の御子イエスの声なのです。

 主の栄光の姿を目撃した三人の弟子たちは、この後ゲッセマネの園で深い嘆き悲しみの内に祈るイエスの姿に出会います。イエスの最も深い苦しみの目撃者ともなるのです。イエスの栄光と、十字架を前にして苦しみ悶える姿を彼らは見ています。それは別々のものではなく、イエスという一人の姿なのです。

イエスの栄光の姿を目撃したペトロは、「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」と言っています。イエス・キリストの本当の姿に出会えるとは何と素晴らしいことでしょうか。「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」感激したペトロは、ここに来れば、いつでもその姿が見れるように…と思ったのでしょう。しかし、イエスの栄光は仮小屋を建てて、そこに閉じ込めて置くべきものではありません。ペトロは、イエスの栄光を余りにも人間的に受け止め、人間の工夫によってそれを保持したいと望みました。神の栄光を自分たちの間に留め置き、いつでもそれに触れていたい…、この思いは、私たち人間に共通の思いです。しかし、それは人間の所有物ではないのです。ですから、そこで弟子たちが聞いた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」というあの言葉は重要です。私たちの信仰は、人となられた神の御子イエスのみ言葉を聞くことによって強められ 養われるものです。

地に倒れ伏す弟子たちに、イエスは近づいて触れながら「起きなさい。恐れることはない」と言われます。彼らが、恐れずに自分の使命を力強く生きる者となるように、というのがイエスの願いです。イエスは、地上の十字架の体験の中で今も私たちを支え続けておられます。

そして、「今見たことをだれにも話してはならない」(9節)とも語っています。イエスの復活の光を通してこそ、十字架の意味は明らかにされます。十字架の苦しみと死に打ち勝ったイエス。その方が、復活して今私たちと共におられる…。「御変容のイエスの姿」は、弟子たちがこれから体験する十字架に躓くことがないように、前もってなされたイエスの特別な配慮だったのです。主の日に私たちは、十字架と結ばれたイエスの栄光を思い起こします。

イエスこそ栄光に輝く神の子であることを山の上で示された私たちも、弟子たちのように日々の生活へ戻っていかなければなりません。私たちが向うこの世の現実は、イエスを救い主と認めない世界です。救い主の本当の姿は、この日常世界においては隠されている神秘だからです。だからこそ、「恐れるな」と語りかける主の声を聞かなければなりません。信仰を生きるとはそういうことです。

三人の弟子たちにとってこの体験は、忘れることの出来ない衝撃的体験であったことでしょう。その意味が、すぐには分らないペトロであっても後に彼は書いています。「私たちは聖なる山にイエスといた時、キリストの威光を目撃し、荘厳な光の中から天からの声を聞いたのです。…明けの明星があなた方の心の中に昇る時まで、暗い所に輝く灯火としてこの預言の言葉に留意して欲しい…」と。(Ⅱペトロ1・16~19参照) 私たちの人生にある様々な苦しみの体験の中においても、それは神の救いを見出す恵みの体験に変わるという約束です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」…。この声は、イエスが洗礼を受けた時(3・17参)にも響いた声でした。かつて、イザヤが語った言葉(42章参照)が、今イエスを通して実現しているのです。イエスが神の御子であるということの本当の意味は、弟子たちにとってもイエスの十字架と復活の後で初めてわかった神秘でした。

栄光のイエスは、モーセとエリヤに囲まれていますが、十字架では二人の強盗に囲まれていました。イエスの衣は光のように白くなりましたが、十字架の上でイエスは裸にされ、その衣はくじ引きにされました。イエス包む栄光の雲と「全地を覆う闇」…。「これはわたしの愛する子」という天からの声に対して、十字架では百人隊長が、「この方は本当に神の子であった」と告白しています。この対比によって、福音記者たちは、イエスにおける「栄光と十字架」が切り離せないものであることを語っているのです。

何も分っていなかった弟子たちは、これらのメッセージを復活のイエスとの出会いによって理解します。その恵みが、私たちにも注がれているのです。人々から誤解され、罵られ、涙を流している時にこそ、私たちは自分の十字架を負ってイエスに従っているのです。イエスの変容…。それは、将来私たちにも起こる神の救いの約束です。