「あなたの光のうちに 私たちは光を見る」(詩篇36:9) という詩編の言葉が思い出されます。私たちはイエスから放たれる光によって本当の光が何あるかを知らされ、その光を通して自分の本当の姿にも気付かされます。そこに救いの光を見るのです。変容の出来事を通して神は、苦難に直面した時の私たちの心を準備しようとしておられます。

 イエスはこれからご自分の身に起こる受難を予告をした後、ペトロ、ヤコブとその兄弟ヨハネを連れて山に登り、彼らの前でご自分の本来の姿を見せています。この出来事は、かつてモーセがシナイ山に登った時、彼の顔が光輝いていたことを思い起させます (出エジプト34:29参照)。しかし、違いもあります。モーセの顔の輝きは主の栄光を反映しての輝きですが、イエスの輝きは、主ご自身から出る輝きです。イスラエルの民は、バビロン捕囚後再建された神殿に、主の栄光の輝きが戻ってくるのを待ち侘びていました。その輝きが今、イエスによって現されているのです。弟子たちが今体験していることは、光の創造主であるイエスご自身によって放たれた光です。主の変容の体験を通してイエスは、ご自分が神の子であることを教え、彼らが躓かないように…という願いも働いていました。

そこで、イエスと語り合っているのはモーセとエリアです。この二人は旧約の歴史において特別な使命を持った人たちです。この体験を通してイエスは、この二人の預言者に勝る存在であることを弟子たちに教えています。モーセは神から律法を授かり、神の国を説いた最初の人物、エリヤは、神の国の完成の直前に再び来られると約束されていた人物です。この二人がイエスと共に、神の救いの計画について語り合っている姿…、これが変容の出来事の中心点です。この体験は、弟子たちの心の一番深いところに刻まれたことでしょう。それは、イエスの十字架を通して全世界を新たにしようとされる神のみこころが明らかにされる体験です。ところが、この時の弟子たちはまだ何も分っていません。ペトロが感動したのは、イエスの栄光の姿を見たことによる感動だけでした。

「主よ、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。」ペトロがこう語っているうちに雲が彼らを覆います。これは、かつてエルサレム神殿を覆った神の栄光が、イエスとモーセとエリヤを包んでいる姿です。同時にこれは、イエスの存在こそが生けるまことの神殿であることをも現わしています。そして、父なる神からの声として、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」という声を弟子たちは聞いています。ここで、イエスの十字架が神の救いの計画の実現であることを示しているのです。しかし、その時の弟子たちにはその意味を分っていません。後からその意味を知った弟子たちの衝撃は大きなものでした。(Ⅱペトロ1:16–18参照)。

私たちの人生にも、様々な苦しみ、分らないことがたくさん起こります。それは、教会においてさえも例外ではありません。しかし、そこで躓いてはなりません。「彼に聞け」とう言葉の通り、そのような時にこそ私たちはイエスの語りかけを聞くように求められています。この世の現実に打ちひしがれている弟子たちに主は近づき、彼らに触れておっしゃいます。「恐れることはない。起きなさい」と。たとえ、イエスを信じて立ち上がることができたとしても、目に見える現実は何も変っていません。そのような中でこそ私たちは、イエスの声を聞き逃してはならないのです。

 「一同が山から下るとき、イエスは、人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにもはなしてはならない」(9節)。 主の栄光を垣間見たこの時の弟子たちであっても、この出来事の本当の意味は未だ分っていなかったという事実は大変重要です。イエスの十字架と復活の後で初めて知った信仰の神秘でした。私たちに出来ることは、分らせて頂ける「神の時」が来るまでイエスが残した言葉を胸に納め、思い巡らしつつ生きることです。これ程に主の復活という出来事は、神の助けなしには理解し難いことなのです。弟子たちには、そのことを正面から尋ねる勇気もありませんでした。十字架に秘められた恵みを正面から受け止めることは、人間本来の現実からすると大変難しい事だからです。

 イエスは、変容においては本来の姿、栄光の姿を現されましたが、十字架の上では辱めを受けています。変容において、モーセとエリヤに囲まれていますが、十字架の上では二人の強盗に囲まれています。変容において、イエスの衣も輝きますが、十字架の上のイエスは裸にされ、その衣はくじ引きにされます。同じように、変容においては神の栄光がイエスを包みますが、十字架の場面では闇だけが全地を覆っています。さらに、「私たちがここにいることは、素晴しいことです!」と叫んだあのペトロの姿は…。十字架において彼は、「イエスなど知らない」と三度も否定しています。順調に行く時とそうでない時と、こんなにも違う人間の姿がここにも描かれています。十字架は、全世界の罪をあがなう神の計画でした。イエスの受難の中に変容の光は隠されています。聖霊に導かれてヨルダン川で洗礼を受けられたイエスも、荒れ野に導かれたイエスも同じ聖霊の働きです。私たちの生涯にも、同じ聖霊が働き導いています。イエスに起きたことは私たちにも起きる事です。私たちもこの世の十字架を通して、神の栄光に与るのです。

私たちが求めるべきことは、この世の栄光ではなく苦難を通しての栄光であり、そこに現わされる神のみこころです。人の目には敗北でしかない十字架も、神のみこころにおいては最高に輝く救いのしるしです。人間の目には闇にしか見えない現実が、神の目を通して見るなら最高の光です。どのような時でも、共におられる神に気付ける人の上に主の栄光は輝きます。闇に輝くキリストの光を世に示すよう召されているのがキリスト者です。今日の福音は、困難の中でその恵みを信じて歩む者の幸いを示しています。神が、イエスの生涯を通して示された神の恵みの頂点は、眩いばかりに輝く光にではなく、この世の十字架の中でこそ明らかにされる神秘です。そこに本当の光があることを教えてくれたのが聖人たちの生涯です。主キリストの愛の御手が私たちに触れ、強められますように…。