イエスは、弟子たちとともにエルサレムへの旅、死と復活の過越に向けて歩んでいます。この歩みの中で弟子たちは大切なことを学んでいます。

「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある。」とイエスは言われます。果たして、私たちの心はどこにあるのでしょうか。生きて行く為に本当に大切なものは何なのでしょうか。自分が自分であるために本当に大切なもの。それを外に求めのではなく、あなた自身の中に見出しなさいとイエスは言われます。

 存在そのものに意味があるように、自分の存在が誰にも奪われない形で意味あるものになるように。そのために大切なものが「愛」であるとイエスは教えました。何かを持っているから価値があるのではなく、存在そのものに意味がある、価値がある…。そういう生き方は、神との関係の中で初めて分らせて頂ける真理です。私たちは、何を自分の富と感じて生きているでしょうか。その富のあるところに、私の心もあるでしょうか。

「あなたがたは、主人が帰ってきた時、すぐに開けようと待っている者でありなさい」。

 ここで語られている事は、一般的な倫理道徳の教えではなく弟子たちに対する教えです。主人の帰りがいつなのか私たちには分かりません。予測できない中で、主の帰りを待っているのが私たちなのです。人の子は思いがけない時に来る。私たちは、地上においてイエスをこの目で見ることはできません。手で触れることもできません。しかし、「恐れることはない」というイエスの確かな約束が与えられています。

 神でありながら、貧しい姿で地上に来られたイエス。その姿の中に誰が神を見たでしょうか。そのイエスが、神の国の完成の時、私たちの救いの完成の時には栄光を帯びて来られると断言されています。大事なポイントは、それがいつなのか私たちには知らされていない、ということです。それが今日の福音で教えられている大切なことです。分らないのが恵みなのです。それは神がお決めになることであって、人間の思いがそこに入ることは許されていないのです。面白いことに、イエスはご自分の再臨のことを泥棒になぞらえて説明しています。その時、すぐに戸を開けようと、腰に帯を締め、ともし火をともして待っている者であれ、と教えておられるのです。“意識して、主人の帰りを待つ者であれ”ということです。私たちの信仰は、ただ漠然と待っていればよいのではないのです。ある種の緊張感を持って、主の約束を意識しながら待つのです。未だ、そこに到達していないから待つのです。今の私たちは、主の約束に飢え渇きながら待つ…という大きな恵みの中にあるのです。

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。

 何ということでしょう。イエスはその時、僕として私たちに奉仕する、と約束しておられるのです。しかもその時は、夜中に襲う泥棒のように、誰にも気付かれないように、不意に私たちに訪れると…。

 主人の思いを知りながら、主人の期待を生きれなかった僕の姿とは、私たちの姿ではないでしょうか。その原因は、目覚めて主人の帰りを待つという緊張感を失ったところにあります。イエスは、思いがけない時に来られる方です。イエスが私たちに求めておられることは、救いの完成を信じて待つ者であれということでした。目覚めて信仰を生きるとはそういうことです。神は、約束された救いの恵みを喜んで与えようとしておられます。その神の心をイエスは教えようとしておられます。神は、すでにそれを私たちのために準備して下さいました。それがイエスの十字架の出来事です。イエスの十字架、それはイエスが、私たちのために命を投げ出して下さったということです。この神の心を知っているかいないかの違いは大きいものです。罰を恐れて生きることにどんな意味と価値があるでしょうか。神の約束はもっと大きいものです。神の恵みに信頼して、交わりの中で生きることこそ神が望んでおられることです。そこに、私たちの思い悩みからの解放もあります。それをイエスは私たちに求めておられるのです。

私たちのもとに来て奉仕しておられる神の愛の神秘に気付く信仰でありますように…。

アンジェラスの祈りにおける教皇フランシスコの言葉。抜粋(2013,08,11)

 今日の福音(ルカ12・32-48)は、キリストとの決定的な出会いへの望みについて語っています。この望みはつねに目覚めた心をもってわたしたちを準備させます。これはわたしたちが、はっきりとであれ、隠れた仕方であれ、心に抱いている望みです。それは、主と出会いたいという深い望みです。あなたの富のあるところ、あなたが望みを置くところとはどこでしょうか。あなたにとってもっとも重要なこと、もっとも貴重なものは何でしょうか。それは神の愛だということができるでしょうか。

 神はわたしたちの心に愛の種を蒔きます。この神の愛こそが、日々の仕事に意味を与え、深刻な試練に立ち向かう助けともなるのです。これこそがわたしたちの宝です。神の愛…。それは漠然としたものでも、あいまいな感情でもありません。わたしたちは空気を愛することはできません。神の愛には、イエス・キリストという顔と名前があります。神の愛はイエスのうちに現されました。わたしたちの愛する方はイエス・キリストです。神の愛は、すべてのものに価値を与えます。マイナスの経験にさえも意味を与えます。そして、わたしたちを前進させ、つねに希望へと心を開かせてくれます。そうです。イエスにおいて示された神の愛は、わたしたちの心をつねに希望へと開きます。