イエスが弟子たちに話しておられた時、群衆の中のある人がイエスに尋ねています。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。イエスは、ラビと呼ばれる宗教的指導者の一人と思われていました。この人は、イエスをラビとして尊敬していたのでしょう。しかしイエスはこの人の求めを退けています。私たちが、自分の生活におけるいろいろな問題の解決を求めてイエスのもとに来ても同じように「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言われることでしょう。 続けて群衆に向かって「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」とイエスは語ります。そして、あなたの心も、同じように 貪欲に支配されていないか振り返りなさい…と言われるのです。

 当時のユダヤの遺産相続においては、長男が父の財産を受け継ぎ、次男以下もいくらかの分け前を貰いました。長男には、弟たちにも彼の取り分を与える義務がありました。その正当な取り分を、兄が渡してくれないので調停を願っているのです。弟にとっては、正当な取り分を願っただけです。しかし、イエスはなぜ、「貪欲」という言葉を使って説明しているのか、その意味を考えてみたいと思います。

 イエスの言う貪欲とは、自分が持っているものによって 命を得ることができると思うことです。それはお金の話しだけではなく、能力、才能、健康、なども含まれるでしょう。それらを有り余るほど持っていても、それによって人の命や人生が決定づけられるものではない、と言われるのです。それらのものによって自分の命や人生が決定づけられると思い、それを追い求めることが「貪欲」なのです。それによって自分の人生を築こうとしているなら、イエスはそれを貪欲と言われます。ということは、私たちは誰もが、貪欲に陥る可能性を持っているのです。私たちは、自分の分を超えて人のものを奪い取ったりはしないでしょう。しかし、初めからあったものであれ、努力して獲得したものであれ、自分が持っている広い意味での財産に依り頼んで人生を築こうとしているなら、イエスはそれを「貪欲」と呼んでおられるのです。

イエスは、有り余る収穫を得た金持ちのたとえでそれを説明しています。収穫を全部しまい込んだ金持ちは、自分自身に言います。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。しかし、神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」とおっしゃっています。これから先、何年も生きて行くつもりでいる人でも、明日の命を私たちは知ることができません。

 神はこの金持ちに「愚かな者よ」と言っています。彼が愚かだったのは、自分が得たもの、蓄えたものによって命を得ることができる、と思っていたからです。自分の持っているものによって人生が決まると思っていたのです。それが貪欲です。賢く生きるとは、この貪欲から解放されることです。そして、私たちの人生を本当に決定づけるものが何であるかを知ることなのです。それは、私たちの手元に蓄えられる何かではなくて、私たちに命を与え、私たちを導き、また その人生を終わらせることさえ出来る方、神を知っているかどうかなのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」…。地上の命は失うものではなく、神にお返しするものなのです。そうです。そのことを私たちは知っているでしょうか。取り上げることも、与えることも出来る方に属している私たちの命です。私たちの命は、神によって与えられ生かされて初めて意味と価値あるものとなるのです。

 この金持ちには、そのような視点がありませんでした。自分が得たもの、蓄えたものによってのみ満足し、これから先、何年も生きていけると安心したところに彼の愚かさがありました。勘違いしてはいけません。イエスがここで伝えようとしている事は、私たちの命を取り上げる恐ろしい神の話しではないのです。むしろ、私たちを本当に愛しておられる天の父の姿です。その神の愛は、死によってさえも失われることはない、ということです。

「今夜、お前の命は取り上げられる」という言葉をどう聞くかによって、天と地ほどの大きな違いが生まれます。神の愛を知っている人は、この言葉を 信頼を持って受け止める事ができます。死によってさえも終わることのない新しい命。イエスの死と復活における神の愛を見つめている私たちは、たとえ今夜、地上の命が取り上げられるとしても、慌てるとことはありません。神の愛をしっかり捉えているなら心配はいらないのです。たとえ、今夜命が取り去られるとしても、いま自分に与えられている務めを果たし、その実りを神に委ねるのです。私たちはこの言葉を、人生の空しさを語る言葉として聞くのではありません。父なる神に信頼して明日のことを委ね、安心して今を生きるための言葉として聞くのです。

 この金持ちが「神の前に豊かになれなかった」(21節)のは、どうしてでしょうか。善い行いが足りなかったのでしょうか。「神の前に…」とは、神と私たちの関係が意識された言葉です。それは、「神の中へ」、「神に向かって」という意味になります。金持ちが愚かだったのは、善行を積まなかったからではなく、神との愛の交わりを生きようとしなかったからです。彼は、自分のために富を積みました。すなわち、自分自身に富を積んだのです。その貪欲が彼の命取りとなりました。本当に必要なことは、神との関係における“豊かさ”を生きることです。それは、自分の思いによって積み上げる豊かさではなくて、イエス・キリストによって与えられる十字架と復活からくる豊かさを生きることです。自分に与えられているものを、自分のためにしまい込むのではなく、隣人のために用いていくという新しい生き方です。貪欲から解放されるとはそういうことです。それこそが、神の前に豊かに生きる賢明な生き方です。貧しさの中にあっても、豊かさの中にあっても、この神がどういう方であるかに目を向けることが大切です。それが神の前に豊かに生きるという事なのです。