マルコ13章初めの部分には、世の終わりについて質問した弟子たちに対するイエスの答えが書かれています。[その時、わたしの名を名乗る者が大勢現れ、多くの人を惑わすだろうが、あなた方は惑わされないように気をつけなさい。」という弟子たちへの注意喚起があります。そして 今日の福音へと続きます。

そこで語られていることは、戦争の騒ぎや、 国と国との戦い、憎み合い、飢饉などの天変地異、さらには、信仰の迫害についてです。言葉だけを見ると私たちを不安にさせる言葉ばかり並んでいるような印象ですが、イエスの言葉の中心は それらの苦しみによって、即 世の終わりが来るということではなく、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(7節)ということが中心にあります。ですから、私たちは何があっても あわてふためいてはいけないのです。むしろ、そのような困難な状況を通して 安心して生きる術を学ぶべきであるということです。いつ如何なる時でも 神の望みは、私たちを救いたいということです。そこにこそ、私たちに対するイエスの思いがあるのです。

しかし、マルコ13章やヨハネ黙示録、ダニエル書などの言葉は、現代の私たちには謎のような言葉、馴染みにくい言葉です。それは黙示文学からくる言葉で表現されているからです。マルコ13章で語られている苦しみの体験は将来起る出来事というより、当時の教会の人々が既に体験していた事なのです。同時にそれは、形は違っても 今の私たちもまた体験していることなのです。

考えてみてください。食糧問題は今も昔も同じです。昔の人々が知らなかった原発のような事故も今はあります。信仰のゆえに迫害を受ける人々…、これもかつての話しではありません。いつの時代も同じことです。福音書が書かれた時代の人々が感じていた苦しみは、今の私たちの体験でもあるのです。イエスは、それらの苦しみについて語り、それは 世の終わりが既に始まっていることのしるしだと語ります。世の終わりがいつ来るか…、それは御父の救いの計画に深く関わることですから、限界ある私たちが直接知ることはできません。しかし、ここには大切なメッセージがあります。「あわててはいけない。安心しなさい。全ては、私たちを救おうとする神のみ手の中の出来事である。世の終わりはキリストを信じる者にとっては救いの完成の時である。そのことに信頼しなさい。」と言うことです。

世の終わりに与えられる救いが、私たちには既に与えられたものとして聖書は語っています。それは、イエス・キリストの十字架と復活による救いは、既に実現しているという事が前提となっているからです。イエスは、私たちの罪による苦しみをご自分の身に負い、十字架において死んで下さったのです。ですから、救いの約束は 既に実現したこととして語っているのです。私たちには、世の終わりに明らかになること、将来約束されている救いの完成を、今この地上において先取りして受止めているのです。

世の終わりについて語るマルコ13章はこの後、イエスの十字架へと場面が変わっていきますが、その前に弟子たちと「最後の晩餐」の場面があります。私たちは、ミサにおいてイエスの十字架と復活の恵みが先取りされていることを思い起こしますが、その目に見えるしるしがミサ聖祭なのです。イエスはこれを世の終わりまで続けるよう望まれ、弟子たちにその使命を与えました。

いつの日か、イエスが約束された救いの完成の時が来るでしょう。それはダニエル7章でも語られてきたことです。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は落ちる、それまで地上を照らしていた光が失われ、闇が支配する。そのときそこに、人の子が大いなる力と栄光を帯びて来るのを人々は見る。かつてダニエルは、人の子が来られるとき、神に逆らうものの力が打ち砕かれることを語りました。その人の子とは、イエス・キリストのことです。復活して天に昇られたイエスが、栄光のうちにもう一度来られ、最終的に神の国が確立することを語っているのです。

人の子が来るのを「人々は見る」。キリストがもう一度来られる時、全ての人々がその姿を見るということです。本当でしょうか。今の私たちは、その姿を見ることはできません。イエスが神の子であり救い主であることを見える形で証明することもできません。まだ、“そのとき”は来ていませんから、地上において私たちは、それは信じるしかありません。目に見えないイエスを信じ、目に見えない神を信じること…、地上における私たちの信仰の価値もそこにあります。信仰によってしか見る事の出来ない真理を見る恵みを頂かなければなりません。そこには信仰の困難さもあります。この世にある限り私たちは、イエスをこの目で見ることはできない という限界の中でその道を歩むしかないのです。しかし、最終的には、再び来られるイエスの姿が誰の目にもはっきりと示され明らかにされることが約束されています。その時イエスは、説明してもらわなければならないような仕方で来られるのではありません。逆に、どんなに驚くべき奇跡を行なう人がいても、それは真の救い主のしるしではないということも言われています。地上を歩まれたイエスは、奇跡によって人を引きつけるようなことはなさいませんでした。むしろ私たちのために十字架にかかって下さいました。イエスが再び来られることによって明らかにされるのは、まさにその十字架による救いの神秘、見ないで信じる者の幸いなのです。

「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てか ら天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と書かれています。そうです。私たちの信仰は、このイエスによって選ばれ、呼び集められたことから始まりました。模範的な生活をして、苦しみを最後まで耐え忍んだからではありません。信仰が何であるかも分らず、苦しみの中で右往左往することしかできなかった私たちが、それでもイエスによって呼び集められて今があるのです。イエスの弟子たちも、同じ体験をしました。イエスが捕えられた時、ただ逃げ惑うことしか出来なかった彼らも同じように、復活したイエスによって呼び集められ、そこから全てが始まったのです。その体験の中で私たちは祈りの大切さを学びます。今までとは、何も変わらない毎日の中で、しかし、今までとは違う大切な体験を祈りを通して見出していくのです。

 

29才の若さで死んだ八木重吉を思い起こします。彼の詩は、余りにも深く、しかし忘れかけていた大切なものを私たちに思い出させてくれます。

 

・「ゆきなれた路の なつかしくて たえられぬように わたしの 祈りのみちを つくりたい」

・「神のごとく ゆるしたい ひとが 投ぐる にくしみを むねにあたため 花のようになったらば神の前に ささげたい」

・「花は なぜ 美しいか ひとすじの気持ちで 咲いているからだ」

 

七五三を祝う子供たちにも 祈りの素晴らしさ、神様の素晴らしさが伝わりますように…。