「イエスはある所で祈っておられた」…。今日の福音の最初の言葉です。この祈るイエスの姿を見た弟子の一人が「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」と願い出ます。祈るイエスの姿から弟子たちは今まで体験したことのない崇高な何かを感じ取りました。彼らが受けたものは何だったのでしょうか。イエスの祈りの奥には、何ものによっても妨げられる事のない静けさ、喜び、自由があります。それを知った者は、自分もその世界に入れて頂きたい…、と願わずにはいられない何かだったのです。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。弟子たちにしても、彼らなりに祈る体験はあったでしょう。しかし、祈るイエスの姿に触れたとき、今までの自分たちの祈りは何だったのだろう。そもそも 本当の祈りとは何なのか…、と考えざるを得なくなったのです。

 通常、私たちは 自分の願いを叶えて欲しいと期待して神に祈ります。その時、私たちの思いは 神に自分の言うことを聞かせなければならない、という思いが先にあります。そして、願いが叶えられれば 神は祈りを聞き入れて下さったと理解し、そうでなかったら落胆します。あの弟子たちも、イエスの祈りに出会うまでは私たちと同じでした。本当の祈りとは何か、祈れない者が祈るとはどういう事なのか。どうしたら本当の祈りを生きる者とされるのか、それを弟子たちは知りたかったのです。祈ることを知らない私たちの前に今、祈るイエスの姿が示されているのです。イエスは、神に向かって「父よ」と呼びかけています。神に向かって親しく呼びかけるということ自体、実は革命的なことです。イエスは、そう呼びかけて良いとおっしゃってくださいました。私たちの「父」として、ご自身を現してくださる神とはどのような方なのでしょうか。すべての善きものの源である父は、私たちに何が必要であるかをよくご存じです。ですから、この父なる神に信頼して「父よ」と呼びかけてよいのです。

 主の祈りの初めに来るのが、「御名が崇められますように」という祈りです。「あなたのお名前が聖とされますように」。聖とする…、それは特別なものとして取り分け、区別するということです。他のどんなものとも比較できない特別な存在、それが父なる神です。神は、私たちの思いなどに左右されず、もともと聖く尊い存在である方です。私たちがこの世界に存在していても いなくても神は聖い存在です。けれどもイエスは、その神のみ名が私たちの毎日の生活の中においても、聖いものとされるよう願い求めなさい、とおっしゃっているのです。なぜでしょうか? それは、私たちの間で神の名が聖いものとされ続けることは、極めて難しいことだからです。いつも願い求め続けなければならない恵みなのです。自分にこだわってしまう私たちの傾向に逆らいながら、主のみ名に目を向け続ける、それが信仰を生きるということでもあります。“いつも 新しく 主の御名を呼び求める 一筋の心をください”と願い続ける者でありなさい、ということです。

 主の御名が私たちの前に現れる出来事、それはイエス・キリストの生涯の出来事でした。イエスにおいて、父なる神はご自身を現してくださいました。神に向かって、本当の意味で「父よ」と呼びかけることが出来るのは、このイエスただお一人です。このイエスと共に私たちも「父よ」と神に呼びかける事が許されているのです。それは、イエスを通して私たちも神の子とされているからこそ実現する救いの神秘です。洗礼を受けるとは、「主の名を刻まれた者になる」ということです。神を知らなかった時の私たちの歩みは、自分へのこだわりが中心となって生きています。しかし、これからは 自分を愛し、守り、導いてくださる主のものとして、この主の思いに全てを委ねて生きる者になりなさいという招きです。主の御名を呼び求める一筋の心が与えられる、ということは人間にとって大きな恵みなのです。主が、私たちにどれほど心をかけてくださっているかに注目する時、私たちはそこで新しい自分を発見します。それは、神が自分の存在を喜んでくださっている。その自分を私も喜び受け入れことができる、ということです。何という恵みでしょうか。主の御名が、一人ひとりの上にも刻まれている。この事実に気付く時、私たちはあるがままの自分を喜んで生きることができるのです。消されることない主の愛を受けた者として、主と共に生きる生き方がそこから始まるのです。

「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」。

 イエスは、祈ることを教えると共に、祈りの心構えをも教えて下さいました。私たちは、隣人を本当に愛することができずにいるものです。そんな私たちであっても、自分の子供に良い物を与えようとします。しかし、その時の私たちの判断力も神の目から見た時、本当に良い物であるか分らない事もしばしばです。最近は、猛暑の車中に 幼い子供を数日間放置し死なせるという悲しい事件さえ起きています。「あなた方は、自分の子供には良い物を与えることを知っている」という、イエスの言葉さえも通用しない時代になりつつあるのでしょうか。大変残念なことです。

 基本的に、私たちは子供には良い物を与えようとします。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださらないはずはない」…。これこそイエスが言おうとしておられることです。人間よりも遙かに大きく広い、神の愛を見つめて歩みなさいと語っておられるのです。父なる神のみこころの深さが語られています。大事なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。聖霊は私たちを「神の子」として下さる方です。聖霊を与えられることによって私たちは、神に向って「アッバ、父よ」と呼びかけ祈る者とされます。(ロマ8章参照)聖霊は、私たちをイエス・キリストと結びつけ、神に向かって「父よ」と呼びかける者として下さる方です。父が与えて下さるのはこの聖霊です。聖霊が注がれることによって、神と私たちとの間に、父と子の関係が生まれます。私たちが日常生活の中で、あれこれと祈り求めることは、神との人格的交わりの中で最も相応しい形で与えられていくものです。私たちが祈り求めるものは何でもその通りになると言っているのではありません。神は私たちに、本当に必要なものを必要な時に与えて下さる方です。その神の愛と計らいに信頼して、あなたの人生を委ねなさいという事です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。このイエスの言葉は、このような関係の中でこそ意味を持つのです。

 言葉を換えて言えば、祈りが聞かれるとは 神との出会い交わりによって聖霊が与えられることだ、とルカは言います。神の計らいの中で私たちに必要なものを神は今日も準備してくださっています。そのことを信じて歩むのです。主の祈りは、神が私たちとの間に築いて下さる新しい信頼の関係です。この祈りの中で私たちは、求める者が受け、探す者が見つけ、門をたたく者には開かれる福音の真理を再確認しているのです。すべての出来事をとおして、主のみ名は賛美されますように…。