天の国を説明するためにイエスは 、畑に隠された宝を見つけた人と、高価な真珠を見つけた商人のたとえを語ります。これらの話しから私たちは、何を読み取るでしょうか。

天の国は「隠された宝」である、と語られているその意味は、誰にでもすぐに分かるものではないということです。しかし、その宝は私たちが生きているこの世界に隠されているというのです。私たちの人生も、この世界も、神の支配の中にありながら、同時にそこには悪の力も働きます。しかし、いつか神ご自身によって良い麦と毒麦とが区別される日がきます。その時まで、天の国は隠された状態であると語ります。とは言え、なくなったわけではありません。隠されたその宝を見つけるのが、私たちの仕事なのです。通常の常識的判断だけでは何も見えて来ないでしょう。それを神からの光によって発見するのです。その宝を見出したところから私たちの信仰が始まります。

 私たちは、どのようにしてこの宝に気付くことができるのでしょうか? 単に、真理を追い求めているだけでは足りません。そこには神の計らいが関係してきます。何かのきっかけで、神との関わりの不思議さに気付かされることもあるでしょう。神の計らいの中での出来事です。そこで神の導きを体験するよう招かれている私たちです。キリスト者は、この隠された宝に出会わせてもらっている者です。宝を見つけた人が、持っている物を全て売り払ってでもその畑を買おうとするのは、その価値を知らされたからです。見つけた宝を、本当に自分のものにするために、今まで大切にしていたものを全部売り払ってでも、その宝を買いたいと望むようになっています。ここに、このたとえの大切なメッセージがあります。

真珠を捜している商人も同じです。彼は、それを買うために持ち物を全部売りました。その中には、彼がそれまでに買い集めた貴重なものもあったでしょう。しかしそれら全てを手放して、本当に価値ある一粒の真珠を手に入れます。天の国を見出すとはこういうことなのです。隠された宝に気付いた人は、全てのものを投げ打ってでも手に入れたいと望むほど貴重な価値あるものであることに目が開かれています。ここでイエスが伝えようとしている事は、天の国を得るために全財産を捨てなさい、という話ではありません。財産があるかどうかが問題なのではなく、天の国という隠された宝に気付いているかどうか、それを何物にも代え難い宝として求める生き方になっているかどうか、という問いかけなのです。そのためには、我慢しなければならないこともたくさんあります。貴重な真珠を見つけた人が、それを買うために他の真珠をすべて手放すように、天の国を見出した人も、それを得るために沢山の犠牲を払いながら、本当に大切なものを求めていくのです。洗礼を受けてキリスト者になるとは、この隠された宝を、何物にも代えがたい尊い宝物として追い求める者になるということなのです。

これらのたとえは、イエスが群衆と別れて家に入った時、弟子たちの質問に対して語られたものでした。(13・36参照)最初から群衆に向けて語られたものではありません。イエスの弟子であるということは、この隠された宝を見つけ、それを得るために、全てを投げ打ってイエスに従う者となった人のことです。多くの人々は、ただ眺めているだけです。それが「群衆」の姿です。しかし、隠された宝を見出した人は、持ち物をすっかり売り払い、多くの犠牲を払いながらも、喜んでイエスの声に耳を傾けて生きていこうとします。素晴らしいものを手に入れることができた喜びに、突き動かされているのです。信仰はこの隠された宝を手に入れようとする者の喜びの体験なのです。体験した者でなければ分らない神秘であるということもできるでしょう。私たちは、この隠された宝を見出すよう招かれているのです。その喜びに支えられながら、イエスと共に歩むよう招かれているのです。

それは、私たちの願いが叶うかどうか、という問題ではありません。イエスが私たちに示していることは、父なる神が私たちを愛していておられるということです。しかも、ご自分の独り子を与えて下さるほどの大きな愛をもって、私たちに注がれる愛です。「神の支配」とは、このような圧倒的な恵みを表わしている言葉です。この宝を見出した者は、その恵みの下で生きるためにイエスの招きに従うのです。たとえ、そのために捨てなければならないものがあろうとも…。しかし、それはその人の喜びであるはずです。私たちの生涯の歩みは、何があろうと全てこの恵みの中に置かれている歩みです。

 網はすでに投げられています。そして、岸に引き上げられ、選別が始まっているのです。それは、先週の福音でも語られていたことでした。この世界は「神の畑」なのです。そこには当然、毒麦も生えています。もし、そこだけを見るなら希望は生まれてきません。しかし、本当にこの世界を支配しているのは悪の力ではなく、神の愛であることに私たちの目は開かれているでしょうか。イエスの生涯のうちに起こった事は、全てそこに向けられています。あれ程の絶望的生涯の体験を通して、神の愛とゆるしを、そして本当の希望がどこにあるかを教えてくれました。悪に打ち勝つ神の愛を信じて歩みなさい、という呼びかけでした。私たちは既に、この恵みの中に入れられています。私たちを捕えているのは神の愛であって、悪の網ではありません。恵みのみ手の中にある神の愛なのです。

マタイ13章の前半は、イエスがガリラヤ湖の湖畔で、大勢の「群衆たち」を相手に語られたたとえです。興味深いことに、イエスのたとえは分かりやすくするための話ではなく、分かる人にしか分からないたとえです。「分かる人」と「分からない人」の区別は、「弟子」と「群衆」の違いという言葉にも表わされています。群衆たちは、イエスの話を聞くけれども、天の国の秘密を悟るところまでには至りません。しかし、後半(36節以下)でイエスは、弟子たちのみを相手に語っています。そこで弟子たちは、イエスの語られる天の国の秘密、隠されている宝の秘密を理解する者となっているのです。それは、必要な恵みを頂いたからであって弟子たちの手柄ではありません。元々、彼らも群衆と同じ存在です。その弟子たちに「あなたたちは、分る者であって欲しい」というイエスの熱い思いが込められています。「あなたがたは、これらのことがみな分ったか」(51節)という弟子たちへの問いかけには、大きな期待が込められているのです。

「分りました。」と答える弟子たちは、本当に分ったのでしょうか?分ったとすれば、それは彼らがイエスに従い、イエスと共に歩んでいく中で頂いた恵みです。弟子とは、外からイエスを眺めているだけの者ではありません。頭で理解して納得したからでなく、分らなくても、イエスを理解させて頂こうとイエスと共に歩む者です。そして、イエスの近くで、み言葉を聞こうと努力する者です。その人々が、天の国の秘密を悟る者なのです。「わたしに従いなさい」と声をかられた弟子たちも、その招きの中に隠された宝があることに気付き、その招きに従う力を頂きました。より大きな次の段階に招くために、イエスは私たちに声をかけられます。「分って欲しい」というイエスの思いに寄り添いながら歩む時、私たちも日常生活の中に隠されたその宝の秘密を悟らせて頂けるのです。キリスト者は、ここで語られている神との交わりを深め、その体験を人々に知らせるために召された存在です。それは、分かち合えば合うほど豊かになっていく不思議な恵みです。「たとえ私たちが神を忘れることがあろうとも、神が私たちを忘れることは決してない。」… ことを信じて、新たな気持ちで共に歩む日々でありたいと思います。