イエスのたとえ話しは、話の中身を明らかにする働きと同時に隠す働きもしています。そのようにしてイエスは、天の国の神秘を示されました。それは、元々隠された神秘だからです。説明されれば誰でも分るというものではありません。神の計らいの中で隠されている神秘…、それは隠されているものとして語るしかないのです。

「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。」(34節)という言葉から、福音記者が伝えよとする深い意味が読み取れます。

 これらを語り終えたイエスは群衆と別れた後、弟子たちの求めに応じて、たとえの説明をしています。たとえは普通、話の中身を理解する助けとなるためのものですが、イエスのたとえは理解する人と理解しない人とに分かれます。イエスのたとえを聞いた弟子たちはそれを理解し、イエスに従う者となっていきますが、群衆は必ずしもそうではありません。ここに、福音記者が私たち気付いて欲しいと願う隠されたメッセージがあるのです。

私たちはどちらに属するものでしょうか。「人の子」というのは、イエス・キリストのことです。「畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。」とあります。

「イエスは、この地上に来られ御国の子らを呼び集めようとしますが、しかし、集まって来た人たちの中には、悪い者も混じっていた」ということです。これを聞いた弟子たちは驚き、戸惑い、どうして、このようなことが起こるのかとイエスに尋ねます。

蒔いたのは良い種であったのに、どうして蒔きもしない毒麦が一緒に生えるのかという疑問です。驚くのも無理はありません。「敵の仕業だ」と答えています。イエスが神の国の福音を宣べ伝えても同時に、神の国の到来に逆らう者たちも現れるのです。確かに良い麦が蒔かれたのに毒麦が生えている。神が働いているのに、それに逆らう悪の力も働いている…、何ということでしょう。これが地上の現実です。地上は、こんな不可解なことが行われている場です。神が良いものとして造られたこの世界に、どうして「悪」が存在し、こんなにも「罪」が蔓延しているのか、また、神が造られたこの良い世界に、なぜ死があるのか…、人間が長い間悩んできた問題の根本もここにあるのです。

悪や罪、死はどこから来たのでしょう。その正体は何なのでしょうか。良い種から芽生えた麦の中にある毒麦。人々はこれがどこから来て、どのようにして生え出たのか知りません。しかし、良い麦の中に毒麦も確かに存在するのです。それは不可解なことですが、厳然たる事実、否定することのできない事実なのです。

良い麦と毒麦が共存しているこの世界。両方とも同じように生え育っています。必ずしも、良い麦が繁栄し毒麦が衰えていくのではありません。むしろ悪い者、不法を行う者の方が栄えていくこの世界です。神は、この現実をどう受け止めておられるのでしょうか。

教会も、この世の一部ですから、人間が集まるところはどこも同じです。そこには良い麦と毒麦が混在しています。イエスがこれを予言してから二千年。それでも、教会はまだ存続し様々な働きをしています。不思議なことです。イエスはこの話しを、先ず弟子たちの前でしています。弟子たちのみが、イエスのこの説明を聞くことができたからです。弟子たちとは、イエスを信じ、イエスに従おうとする者たちのことです。その弟子たちは、このたとえに隠されている「天の国の秘密」を知る恵みを神から頂いているのです。彼らの手柄ではなく恵みです。それがキリスト者なのです。

ここで、私たちはイエスの言いたいことに気付かなければなりません。それは「毒麦」に現されている悪や罪や死は、一見華々しく見えますが、最終的には空しいものであるということです。毒麦は主人によって蒔かれたものではありません。神は最初から悪の存在を望んでおられません。悪や罪は神が望まれなかったもの、神が意思されなかったものです。神の意思に逆らって存在しているものです。

そもそも、存在の源である神から離れて存在することが出来るのでしょうか。悪とは、存在する根拠を欠いているもの、存在の根拠が否定されているものです。存在しているように見えても、いずれは存在できなくなるものです。しかし、現実のこの世界には、悪が存在し、罪の力が猛威をふるっています。それはなぜでしょうか。

良い麦と毒麦が共に生え育っているこの畑は、まさに、この世そのものです。そしてこの状態は、世の終わりまで続くとイエスは言います。このことを見抜くことが出来なければ平静さを失い、一刻も早く悪の根源を抜き取ろうとするでしょう。それが僕(しもべ)たちの姿です。

「悪」が何であるかを知っている主人は悪の存在を前にして動揺せずに答えます。毒麦を植えた「敵」とは、神に逆らう者です。存在の根拠を持たないままで、事実この世に存在する悪や罪は、すでに神の思いに逆らって存在しているのです。悪や罪、死の力は私たちを痛めつけます。このようにして、悪や罪は私たちだけでなく神をも攻撃し、神を悲しませているのです。ですから神は、ご自身のこととして地上の悪や罪の力に立ち向かっておられるのです。まさにイエスキリストにおいて行われた事はその事でした。神はイエス・キリストの十字架によって悪と罪の力を取り除かれました。今、神のこの勝利は十字架の陰に覆われています。信仰だけが、十字架に隠された神のこの勝利を見ることができます。たとえ今、この世界に悪の力が猛威を振るっているように見えようとも、この世界を最終的に支配しているのは「神の愛のみこころ」なのです。それが、十字架の神秘です。

神ご自身によって、私たちの深いところに蒔かれた種は必ず成長します。神の国が到来するとき、神に逆らう者、逆らう力は、もはや存在することは出来ません。既に存在の根拠を奪われている悪の力はその存在を失うしかないのです。

信仰のないこの世界において、聖霊の助けによって、神の約束に信頼して歩もうとするから私たちの信仰は尊いのです。それは、天から頂く恵みであって地上から生まれるものではありません。だから私たちは安心して良いのです。神への信頼は、不安や焦りからも私たちを解放します。一刻も早く毒麦を抜き取らなければ…という人間の焦りに対してイエスは言われます。「わたしの言葉信じて待ちなさい。そして、刈り入れまで、両方ともそのままにしておきなさい」。

人間の限られた知識と経験に頼って信仰を生きようとすることは危険です。何があろうと、状況がどのように変化しようと、人の思いをはるかに超えた神の御手に委ねるのが私たちの信仰です。時が良くても、悪くても、神は私たちの心に「良い種を蒔かれた」のです。イエスは、「神の約束への信頼」という種を私たちの心に植えて下さいました。そのことを知っていれば、今までの全ての体験が、神のみこころを賛美する恵みに変ります。目に見えない小さなからし種よりも小さな私たちの信仰。神はそれを地上のどんな木よりも大きく成長させ、空の鳥が来てそこに憩える程に強くすることが出来るのです。この神への信頼の種をイエスは私たちの心の奥深くに植えて行かれました。そして、今も、日夜、耕して下さっています。どうか、この神への信頼と感謝が私たちの心に芽生え成長しますように……。