種蒔きのたとえで問われていることは、私たちが神の言葉をどう受け止め、実を結ばせようとしているかということです。神の言葉には、私たちの人生を一変させてしまうほどの力があります。しかし、自動的に変るわけではなく、私たちがそれをどう受け止めるかにかかっています。神は私たちの心に、み言葉の種を蒔かれます。しかし、実るのは良い土地に蒔かれた種だけです。神からの呼びかけを受け止める私たちの心が、道端や石地、茨のような環境であったなら成長することも実りをもたらすこともできません。自分の知識や経験に頼って、自己流に神の言葉を聞いても福音に出会ったことにはならないのです。
石地に蒔かれた種は、最初は熱心に神の言葉を受け入れますが、困難や壁にぶち当たるとすぐに挫けてしまいます。神に繋がっていないために、その土台はもろいものです。この世の心配や富は、茨のようなものです。富への執着という凄まじい力によって、人間は大切なものを失います。
私たちの心が聖霊に導かれているならば、素直に神の言葉を受け取ろうとするでしょう。それが良い土地です。良い土地と言っても、罪がない状態を表している訳ではありません。罪を犯さない人間などいませんから。謙った心、謙虚な心で神の言葉を受け入れようとする心です。このような人は、豊かな実を結ぶとイエス約束しているのです。
このように、イエスは多くのたとえを通して神の救いとは何であるかを語られました。弟子たちに対して、「あなたがたには天の国の秘密を悟る恵みが与えられている」と語りました。それは、あなたがたは「天の国の秘密を悟る恵みが与えられている」と言うことです。そして、イザヤの言葉を引用しながら説明しています。
「この民の心は鈍り、耳はとおくなり、目は閉じてしまった。こうして彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」(15節)
ここで語られていることは、イザヤが送られた時と同じように、人々は神の言葉を理解せず、受け入れず、悔い改めようともしない、ということです。同じことがイエスにおいても起こりました。種蒔きの譬えは、弟子たちに語られています。この時点で「天の国の秘密」を悟ることが許されているのは弟子たちだけだったからです。大切なことは、私たちの心が聖霊の助けのもとで、「良い土地」となっているかどうかです。この世における私たちの信仰は、常に茨に囲まれているようなものです。神に向かう信仰を覆い塞いでしまう様々なものが満ちているところです。信仰を持っているはずの私たちの心まで、茨のようなものとなっています。そして、様々な思い煩いがそこに生まれます。それは、私たちを神から離れさせる力です。それによって私たちの信仰は枯れてしまいます。蒔かれた種が、芽を出し、育っていくためには、これらの妨げが乗り越えられなければなりません。どのようにして乗り越えれば良いのでしょうか。
大切なことは、「あなたがたは、天の国の秘密を悟ることが許されている」(10節)という葉です。あなたがたは、み言葉を聞いて理解することができるというイエスの言葉です。あなたがたは、み言葉を聞いて悟る恵みを頂いている者であり、ゆえにあなたがたは「良い土地に置かれていることに気付きなさい。」とイエスは語っているのです。同じみ言葉は、群衆にも語られていますが、彼らはそれを理解することができません。しかし、神の言葉に触れたあなたたちはそれを悟ることを許され、理解する恵みを頂いている。これ以上の幸いがどこにあるかと問うておられるのです。
確かに私たちの現実は、いつまで経っても石だらけの土地であり、茨のようなものです。しかし、その私たちに、神は常にみ言葉の種を蒔き続けておられるのです。だから、信じ委ねていいのです。み言葉の種は、どんな土地にも蒔かれます。私たちの頑な心にも蒔かれています。神によって蒔かれたそのみ言葉の種を、私たちは自分の力では深く根を下ろすことの出来ない者です。それでも、諦めずに神は水分と養分を与え続けておられます。この世の思い煩いに捕らわれ、大切なものが見えなくなってしまう私たちに、神はみ言葉の種を蒔き続けておられるのです。私たちの頑なな心を耕し続け、何とかして成長して欲しい、諦めないで欲しい、豊かな実りをもたらすようにと今も働き続けておられるのです。その神の語りかけに耳を傾けなさい、とイエスは語っています。神のこの忍耐強さを忘れてはなりません。私たちの中にあって、今も働き続けているこの神の姿が見えているでしょうか。道端であっても、石地であっても、茨のような心であっても…、そんなことは問題ではありません。神はそれらを一瞬の中に恵みに変えることが出来ます。それに気付く時、全てが恵みに変ります。神ご自身が汗を流しながら、私たちの頑なな心を、沈黙のうちに、今日も耕し続けておられるのです。神のこの働きによって私たちの信仰が支えられていることに気付いているでしょうか。
ミレーとゴッホが描いた有名な絵を思い出します。「種蒔く人」、そして「落ち穂拾い」などを見ると、今までとは違う何かが私たちの心の深いところに迫ってきます。今日一日、食べる物のない貧しい農夫たちが、家族のために、収穫の終わった畑にこぼれ落ちた僅かな穀物の種を、一粒一粒拾い集めている姿…。家族のために、種を蒔き続ける姿…。そこに慈しみ深い神のみ手を見ます。
踏まれても 踏まれても、神は今日も蒔き続け、耕し続けておられます。私たちの中にあって、今も隠れた働きをしておられる神のみこころに気付く信仰の恵みを願いましょう。それこそが、イエスの言う「良い土地」なのです。
イエスの愛のみが すべてにおいて すべてとなりますように…。