「あなたは、これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。

人々がイエスに敵対し、殺そうとしている状況の中で、まさにそのような場において、神のみ業がいま行われていることを、御父をたたえてイエスは語っています。

神のみ業は、全ての人に明らかにされているわけではありません。神ご自身が、神の国の福音をある者たちには示し、ある者たちには隠しておられると語っています。イエスの言葉を受け入れない人々とは、決して愚かな人々ではありません。むしろ、この世においては「知恵ある者」「賢い者」です。しかし、神の国の福音を示され、受け入れた人々は「幼子のような者」たちでした。

幼子のような、弱い者たちに神の国は示されます。神が隠されるなら、どんなに知恵ある賢い者も信じることはできないのです。しかし、神がお示しになるなら、どんなに小さな者でも信じる恵みが与えられます。信仰は、人間の力や資質によるのでないのです。私たちの側には何の根拠もありません。ただ、信じる恵みが与えられただけです。神がそれをあなたに望まれたからです。

「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいない」(27節)と言われる程イエスと御父との間には親密な関わりがありました。

イエスは、天地の主なる神をはっきりと知っておられます。父と一体であり、父からすべてのことを任せられているイエスが、神の御子として委任されたその全権限を用いて、御父を私たちに示す使命を果たしておられるのです。そのために、イエスは来られました。それによって私たちは、神を身近に受け止めることができるようになりました。私たちが父なる神を信じようとすることは、御子イエスの存在を通して起こることなのです。イエスの執り成しの中で、イエスの名によって、イエスと共に祈るとき、私たちの祈りは御父に届く祈りとなります。それは、この世の知恵で分ることではありません。だから福音の神髄は、この世の知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示される神秘であるとイエスは言われるのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)

父からすべてを任されている方が、私たちのために全ての苦しみと死まで引き受けて下さいました。この方のもとで、私たちは、自分の重荷を負って下さる方と出会い、真の安らぎを与えられるのです。それは、単なる理念ではなくイエス・キリストという具体的な存在との出会いです。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる」。

軛を負うとは束縛を受けることです。なぜ、それが安らぎに結び付くのでしょう。もし、私たちの信仰が理念だけの信仰であるならば、その神は私たちの重荷を負ってくれるでしょうか。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(29節)。

知恵ある者や賢い者になることによって、真の安らぎが得られるのではないのです。幼子のようになろうと努力することによってでもありません。私たちの側で満たすべき条件は何もないのです。神の国の福音は、御父が示して下さることによって初めて分るものです。イエスが御父を私たちに示そうと思って下さった時、初めて分かる真理なのです。

私たちの思いよりも、イエスご自身が、私たちに神を示そうと決意しておられるから実現する恵みなのです。私たちは、イエスによって選ばれて、父を知る者とされました。何故私たちが選ばれたのか、私たちの側には何の理由もありません。ただ神が、多くの人々の中から私たちを選び、イエス・キリストの父なる神を知る者として下さったのです。この神の選びと招きがあるから、私たちは、重荷を負って疲れた心と体をひきずりながらも、イエスのもとに行くことができるのです。そこでまことの安らぎに与ることができるのです。この安らぎは、神が私を選んでご自身を示して下さった恵みを知ることにあります。自分の側にではなく、神の側に信仰と救いの根拠があることを知らされた私たちはイエスのもとに急ぎます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い。」イエスの軛を負うことの中に、真の安らぎがあることを知らされています。どうすれば、このイエス・キリストのところへ辿り着けるのでしょうか。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(29節)

昔、牛の首のところに木または鉄で作った道具をくくり付けて畑仕事をしました。それが軛(くびき)です。イエスの言う「わたしの軛」とは、イエス御自身が負っている軛です。その片方にあなたも繋がれていなさいという呼びかけです。このようにして、私たちもイエスと結ばれるのです。

 私が負っている重荷、それをイエス・キリストも一緒に担って下さる…。「キリストの軛」を負うとは、そういうことです。逆の方から見れば、私の軛をイエス・キリストが担って下さっているという事です。その事に気づいた時、私たちは本当の慰めを得られるのです。私たちは一人ではありません。イエスも一緒に、この軛を負ってくださっているのです。同時に、私たちはそこで神の御子イエスが人となられた意味をも考えなければなりません。私たちが持っている肉体を神の御子も持たれました。私たちが人生で体験するいろいろな苦労をイエス・キリストも同じように体験する者となって下さいました。そして、本来は私たちが追うべき罪の責任を、十字架の元でご自分のものとしてイエスは引き受けて下さいました。それが、主のあがないによって実現した私たちの救いの根拠です。罪のないキリストが、なぜ十字架にかかったのか、それは、私たちのすべての人間と連帯し、その罪を担われるためです。

イエス・キリストにおいて起こったすべてのことは、主が私たちと一つになられ、同じ軛を負うために起こったことです。イエス・キリストが死者の中から復活されたことによって、私たちもこのイエスに繋がっていることによって復活の恵みを頂けるのです。命そのものであるイエスと同じ軛に繋がれているからこそ、私たちもイエスと共に、新しい命を頂くのです。イエス・キリストの復活は、実は私たちのための復活だったのです。

 それだけではありません。教会の信条にもありますように、イエスは復活の後、天に昇られましたが、それによって人間であることを止めた訳ではありません。イエスは、天に昇られる時も、人間になったことを捨てませんでした。神であるとともに、人間として天に帰られました。このことによって、私たちが人間であるということも含めて救われるための条件が整えられました。イエスに繫がっている私たちもまた、人間性を捨てることなく、神の創造のみ業に叶った新たな者として天に挙げられるということです。それがイエスによって実現された恵みです。

いつ、この救いが目に見える事実として完成されるのでしょうか。それは、神の計らいの中で秘められていることで、人間が推測したり、計算したりすることではありません。しかし、ただ、漠然と待っているのでもありません。そのために、イエスは聖霊の助けを約束して下さいました。聖霊の働きとは、復活されたイエス・キリストが私たちの内に住んでくださることによって実現する確かな恵みです。

聖霊の導きがなければ、私たちはイエスの約束を受け止めることができません。イエスが救い主であると信じることが出来るのも、聖霊が私たちの中で働きかけておられるからです。聖霊によって御父と御子が私たちと共に今も共におられ、悩み多きこの人生を導いておられることを知るのです。

救い主の使命を終えて、イエスは天に帰られました。今、イエスは遠く離れたところから私たちを眺めているのではありません。今も私たちの内にあって、私たちの軛を担っておられるのです。なぜ、イエスは「わたしの軛は軽い」とおっしゃるのでしょうか。それは、主が共に負って下さる軛だからです。

イエスは、私たちの前にある十字架を「わたしの十字架」と言っておられます。私たちの重荷を、主が共に背負って下さっておられるので、それはもはや重荷ではなくなっています。だから「わたしの荷は軽い」と言っています。私たちの人生を共に歩みながら、共に軛を負って下さるイエスの存在を、もう一度心に刻みたいと思います。