先週から、イエスのエルサレムへの旅が始まりました。それは、十字架へと向かう旅です。イエスもそれを意識しながら歩んでいます。弟子たちは、これから迎えるイエスを人々が救い主として迎えることができるように、その準備をさせるため 一足先に派遣されます。「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。という言葉からも分るように、イエスがこの町に来られる、そのことによって神の国があなたがたに近付いている。この地上の世界が、いかに不完全であろうとも、イエスを相応しく迎えることによって、神の国、神の恵みが この地上に実現する。… そのことを示すために弟子たちは派遣されるのです。この姿は教会の姿、私たちの姿でもあります。神の国が近づいていることを伝えるために、私たちも招かれています。十字架に死に、復活されたイエスを告げ知らせるために、全てのキリスト者は世に派遣されているのです。

「先駆け」とはどういう意味でしょうか。それは、イエスご自身が後から来られるということを前提として語られています。それはイエスの約束です。教会は、これから来られるイエスを、先駆けとして世に示す使命を与えられているのです。弟子たちだけでなく、イエスを信じて歩む全てのキリスト者にも、その使命は与えられています。

 その際、弟子たちは 二人ずつ組にして派遣されました。バラバラではなく、主が与えてくれる仲間たちと共に、一致しながら進むことが大事なのです。何を伝えるのでしょうか。立派な思想や主義主張ではありません。自分がイエスとの出会いの中で、見聞きした事、体験した事をあるがままに伝えるのです。

 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」…。イエスの言葉には深い意味があります。私たちが置かれている状況、それがどんなに困難に満ちたものであろうとも、イエスによる実りは約束されているのです。「収穫は多い」と断言されています。豊かな収穫が約束されているのです。とても、そのようには思えない状況の中においてイエスはこの言葉を語りました。実りが少ないのではなく、「働き手が少ない」とおっしゃっているのです。畑は豊かに実っているのに、収穫のために働く人が少ない…。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願いなさい」とイエスは語るのです。私たちは「収穫のための働き手」です。しかも、自分で種を植え、実を結ばせ、刈り取るという話しではありません。イエスが約束している実りとは、収穫の主ご自身の働きによってもたらされるものです。すなわち、神ご自身が畑を耕し、種を蒔き、世話をしてくださったその実りを私たちが収穫するのです。私たちは、それを刈り入れるだけです。私たちに命じられていることはそれだけです。

 考えてみてください。霊的分野において、もし 私たちが自分で畑を開墾し、種を蒔くのであれば 収穫など期待できるはずがありません。それはイエスがして下さることなのです。そのことが、ここで語られているのです。これはイエスの約束の中心です。「働き手が少ない」というのは、この約束を理解し、協力してくれる人が あまりにも少ないというイエスの嘆きです。何から何まで自分でしなければならない、と思っている人が多いのです。神が私たちに示そうとしておられる世界は、私たちの思いも経験も遙かに超えた恵みの世界です。豊かな実りも備えられていることを信じてイエスと共に歩むのです。その時、自分で蒔いたのでもなく、育てたのでもない実りを、私たちは受けることになります。そのようにして、神の国の協力者が増えるように祈りなさい、ということ。これがイエスの切なる望みだったのです。教会のために、イエスの切なる望みのために私たちが自分を捧げ、祈る者となる…。そのことによって、地上におけるイエスの約束も実現されていきます。そのような協力者をイエスはいつも探しておられます。

 同時にそこで、厳しい現実も語られています。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものである」。狼の群れの中に送り込まれる小羊は食い殺されるしかありません。私たちは、食い殺されるために派遣されるというのでしょうか。ここで言われている大切なことは、神の国のために働く者は、同時に自分ではどうすることもできない限界があることも、しっかりと認識して欲しいということです。狼の群れの中の小羊は、自分で自分を救うことはできません。狼と戦うことも逃げることもできないのです。

自分ではどうすることもできない状況の中へ派遣されている私たち。でも、そこに本当の真理があります。自分の力や自分で用意したものによってどうにかしようとするなら、それはイエスの福音宣教ではありません。私たちの現実はもともと、狼の群れの中に送り込まれる羊のようなものであって、自分でどうにかなるものではないのです。自分の財布、袋、履物…、自分が持っているもので何とかしようとするなら、どんなに頑張っても、いつまで経っても「収穫は少ない」と嘆くしかないでしょう。しかし、収穫の主が、豊かな実りを用意して下さっているのです。狼の群れの中に私たちを送り込んだ神ご自身が、よく分っています。私たちを守り、導いてくださる、その神の約束に身を委ねて歩むところから、全ての恵みが始まります。

 私たちはイエスから委ねられたこの使命を生きるためにそれぞれの場に派遣されています。人間の貧しい現実が、福音の喜びに変る…、この約束を信じて歩むのは、そこに神の力が働くからです。その時、私たちの思いを遙かに越える神の恵みの現実を体験することになるでしょう。

 「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい」。平和があるように…。ユダヤ人たちが交わすシャロームという挨拶の言葉です。「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」。

私たちは、イエスによって実現し始めたこの平和を生きるように招かれています。そのことを信じて生きる者には、主の平和が留まるという約束です。それは、私たちを派遣して下さるイエス・キリストによって実現される平和です。私たちを迎え入れてくれる家に泊まり、そこで出されるものを食べなさい。… この言葉は、物乞いのような生き方をしなさいと言っているのでしょうか? そうではありません。神の計らいに委ねて生きなさい、神は必ずあなたを護られるという約束です。主の約束を信じて歩む者を、神が見捨てることなどどうしてあり得るでしょうか。

イエスの先駆けとして派遣された弟子たちを受け入れない町もあります。その場合には、そこを去り主が示される新しい場で働くことを主は望まれます。自分で種を蒔き、自分で育て、自分で収穫するために派遣されたのではないことを ここでも思い起こす必要があるのです。私たちは、「主が用意してくださった収穫のための働き手」なのです。私の思い、私の計画、私の夢の実現が目的なのではありません。主の望みが成就される。そこにこそ、私たちの本当の喜びもあります。

 イエスの十字架と復活によって実現された救い。自分で育てたのではない実りを刈り入れるため、収穫のための働き手として派遣されている私たち。神の救いの完成に向かって私たちが用いられているとは、何という驚くべき神のなさり方であることか…。いつの時代でも私たちの歩むべき「神への小道は、いつくしみとまことにあふれている」(詩編25)のです。