律法の専門家が、 イエスを陥れようとして尋ねています。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが律法をどのように理解しているかを試すためです。彼の企みを見抜かれたイエスは、その質問に直接は答えないで、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるのか?」と聞き返しています。すると彼は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(申命記6・5、レビ記19・18参照)という聖書の言葉を用いて正確に答えています。「正しい答えだ。それを実行しなさい。」とイエスは彼に言われました。実は、律法学者の目的は愛を生きるよりも自分を正当化するため イエスと論争するところにあったのです。

 律法学者たちがイエスを非難するのは、イエスが取税人や罪人、遊女と呼ばれる人たちと親しく関わっていたからです。それは、律法においては禁じられていることでした。律法学者にとってそれは、完全に律法を生きていると自負する自分たちの生き方と直接結び付く大問題だったのです。イエスは、彼らの問いが間違っていることを「善きサマリア人」のたとえを通して語られました。

 エルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われた旅人の話しです。その道は危険な道でした。旅人は大切なものを全て奪われ、半死半生のまま取り残されます。ある祭司が、偶然その道を下って来ましたが、彼は倒れている旅人を見ると面倒なことに関わりたくないと、道の向こう側を通って行きました。同じように、レビ人(祭司と同じように神殿で奉仕をしている人)もその道を通ります。彼も同じように道の向こう側を通り過ぎて行きます。祭司にとっても、レビ人にとっても相手が誰であれ、助けを必要とする人に手をさしのべることは当然行うべき愛の行為でしょう。しかし彼らにとっての愛の行いは、ただ知識として知っているだけで、具体的に 目の前に倒れている人を助ける行いに結び付きません。道の向こう側を通って、見ても見ぬふりをします。神殿において素晴らしい礼拝をしている祭司であっても、もし愛を持たないならば、その信仰はあなたにとってどんな意味があるのか…とイエスは問うているのです。

 そこへ、あるサマリア人が通りかかります。サマリア人はユダヤ人とは仲が悪く嫌われている人々でした。ユダヤ人もサマリア人も元々は同じ民族ですが、イスラエル王国が分裂(BC922)した後、サマリアに外国人が流入、その結果 同じ神を信じながらも異邦人の影響を受けている者たちとして正統派ユダヤ人たちからは蔑視されるようになりました。イエスの時代に入ってからも、この不和は解消されず、ユダヤ人たちはサマリア人の地を通ることさえ避けていたのです。特権階級のユダヤ人たちから嫌われているこのサマリア人をたとえに登場させているところにイエスの伝えようとする意図があります。

 このサマリア人は倒れているユダヤ人を見て手厚く介抱します。「憐れに思い」とは、はらわたが揺すぶられるほどに深い共感を覚え介抱したという事です。(33節~35節参照) 祭司たちには決して出来ないことでした。イエスは改めて律法学者に問い直します。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。「その人を助けた人です。」と彼が答えると、「では あなたも行って、同じようにしなさい」とだけ言われます。

 愛を目的としたに生き方にさえも自己満足が気付かないうちに入り込んできます。誰が隣人であるかという定義よりも、生活の中で私たちがいかに隣人であろうとしたかが最も大切なことなのです。そこが、律法学者やファリサイ派の人々とイエスの生き方の違いでした。イエスの教える愛は、律法で定められた範囲を遙かに越える愛でした。福音が私たちに教える愛は、抽象化された一般的な愛ではありません。サマリア人は、自分たちを嫌い蔑視している傷ついたユダヤ人のために、自分の予定を変更してまで関わりました。果たして、このサマリア人のような生き方が私たちに出来るのでしょうか。イエスは、自分本位に生きている私たちを責めず、神の愛をもって私たちのもとに来られた方です。このイエスに出会わせて頂いた喜びが、私たちに神と隣人を愛する方法を教えてくれるのです。

 第二朗読では、父なる神が私たちを闇の力から救い出し、御子キリストのもとに置いて下さったと語られています。それは、イエスが神の御子である事と深い関係があります。どういう意味でしょうか。「イエスは、すべてのものが造られる前に生まれた方」だということです。キリストは、天地万物の創造に先立って、父なる神から生まれた方、私たちのように神によって造られた存在ではなくて、神から生まれた子なのです。全てのものよりも先におられた方であるがゆえに御子は、父なる神と共に、創造のみ業に関わっておられたのです。パウロの言う「万物は御子において造られた。万物は御子によって、御子のために造られた」という言葉は、イエスが、御父と共に 全てをお造りになった神であることを語っているのです。

 人間は神と共に生きることを拒み、その結果、神との平和、互いの平和、万物との平和を失ってしまいました。その平和を回復させて、この世界を本来あるべき姿に変えるため、神は御子を遣わして下さったのです。それは、御子キリストが十字架を担い死んで下さったことによって実現しました。神である方が、私たちのために、私たちの罪の償いを果たして下さった…。それは大きな恵みです。このことにより、本当の平和がどこから来るのかを神は教えてくださったのです。

 イエスは「死者の中から最初に生まれた方」(コロサイ1・18)となられました。それに続いて、私たちにも死者の中からの復活が与えられる、その先駆けとなられたのです。父なる神は、御子イエスの復活によって、私たちにも永遠の命を与えようとしておられるのです。神は、御子を教会の頭として下さいました。教会は、御子イエスの体です。私たちはそこで洗礼を受け、そこで御子キリストと結び合わされ、御子キリストの体の部分とされるのです。それでも、人生の歩みの中で底なしの沼に引きずり込まれてしまう痛み、悲しみはなくなりません。そこで絶望することもあります。しかし、神の御子イエスの存在がある限り失望してはならないのです。イエスは、そこから復活なさったのです。私たちは、自分の正しさや立派さによって救いを勝ち取るのではありません。キリスト者は、イエスの救いによる恵みに支えられて、イエスが生きたこの地上の現実を 希望を持って生きるのです。パウロは、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」という申命記30章14の言葉を前提にしながら説明しました。イエス・キリストは、今も私たちのところに来て下さり、地上の底なしの淵にまで下り、そこから復活して神の心を語り続けておられるのです。聖堂の中に安置されている聖体、ミサの中で私たちが拝領す聖体は、まさにその事のしるしです。「御言葉はわたしの近くにあり、わたしの口、わたしの心にある」のです。