「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9・51)。ここからルカ福音書は新しい局面に入ります。エルサレムでイエスを待ち受けているのは十字架です。それまで、ガリラヤで活躍しておられたイエスが、エルサレムに向かう決意をされるということには 大きな意味があります。その時がいよいよ近づいたことを知ったイエスは、弟子たちの先頭に立ってエルサレムへ向けて歩み出しているのです。

 途中、サマリア人の村に入りますが、村人からは歓迎されませんでした。それは、ユダヤ人とサマリア人との間にあった対立によるものです。(サマリア人は、ユダヤ人と異邦人の混血であったため、ユダヤ人たちはサマリア人を軽蔑していました。)彼らは、歓迎しないどころか、むしろ敵意をもってイエス一行を受け止めています。それに対して、弟子のヤコブとヨハネの兄弟は怒り、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょう」と発言し、イエスからたしなめられています。私たちも 同じようなことをしているのかも知れません。

 イエスは、敵対する人々に対して、怒りや敵意をもって対応することを戒めておられます。これはとても大切な教えです。同じ神を信じ、同じイエスに従って生きようとする者同士が、なぜ戦争という悲劇を繰り返すのでしょうか。なぜ、相手を虐殺するまで追い詰めることができるのでしょうか。これは、今も昔も、人間の持つ罪からくる悲劇です。敵対する者に対する怒りを押さえ、滅ぼすことによって問題を解決しようとする思いを捨てること、それこそ、イエスの弟子として生きる者の本当のあり方なのです。イエスは、エルサレムでこれから起ることを予測しながら弟子たちとの旅を続けています。

 旅の道中、イエスと一緒について行きたいと申し出る人々がいました。この人々にイエスが語った言葉に注目しましょう。イエスに従うとはどういう事なのかがそこで示されています。

 最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言うすばらしい信仰を表明をしています。しかしイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。「あなたは私の行く所ならどこへでも従って来ると言っているが、その私には枕する所もない、安住の地もない…、その私に本当について来れるのか」という意味です。捕えられ、十字架につけられるためにエルサレムへと向かうイエスの旅とは、まさにそのような歩みであった事でしょう。イエスに従うとは、この旅路を共に歩むことです。どんな強い覚悟であろうと、イエスに従っていく信仰の歩みは、自分の決意や努力によって実現するものではなく、神の助けによって完成するものなのです。

 また、別の人には、イエスの方から「わたしに従いなさい」と招いています。しかし その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言っています。イエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とおっしゃいました。この人は、イエスの招きに応えて従うつもりではいるのですが、まず自分の思いと計画を優先させてくださいと願っているのです。当然と言えば当然な思いです。三番目の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言います。しかしイエスは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とおっしゃいます。ここで語られている言葉は大変厳しい言葉ですが、イエスは何を伝えようとしているのでしょうか。

 父を葬りに行く、家族にいとまごいをする…これらが悪い事だと言っているのではありません。人間として、大切にされるべき事であるというのは誰もが知っています。しかし私たちは、そういう、当然優先すべきことを 他にもたくさん抱えながら生きています。そういう現実の中で、最終的に、本当に優先すべき事は何なのかを、イエスから学んでいるのです。どちらかを選んだら信仰に反する罪になるということではありません。イエスとの関わりの中で一人ひとりの選択なのです。

 最初の箇所に戻りましょう。イエスは、十字架の死と復活の時が近づいたことを意識して、その苦しみを受けるためにエルサレムへと踏み出しました。このイエスの歩みによって私たちの救いは実現しました。私たちの努力によって、あるいは良い行いによって与えられた恵みではありません。イエスの十字架の死と復活への歩みを通して与えられた救いです。それゆえに、私たちは十字架へと向かうイエスを探しながら イエスと共に歩みたいのです。他にも優先しなければならないことがいろいろある中で、このイエスに従っていくことを何よりも優先して生きるのが私たちの信仰なのです。それは「あなたがおいでになる所なら どこへでも従って参ります」という人間の努力によるものではありません。もちろん人間の努力も尊く大切なものですが、私たちの救いは十字架への道を歩んで下さったイエス・キリストの十字架と復活によって初めて与えられる恵みなのです。

 ですから、この言葉は、家族のことなど放っておいてもよい、という意味ではありません。私たちがここから読み取るべきことは、イエスに従って生きる時 私たちは“イエスと共に旅する者になる”ということです。アブラハムがそうであったように、信仰とは旅立ちです。自分にとっての安住の地、安心できる場を離れなければならないということも起こり得るのです。父を葬るとか、家族にいとまごいをするという言葉に象徴されるように、今までの親しい関係からも出て、一人の人間として、イエスと共に生きる者になるということです。キリスト者になるとは、私たちが元々持っているこの世の常識を超えて、イエスと共に新しい信仰の旅を始めることなのです。その信仰の旅路において、神の大きな恵みを体験していくのです。枕する所もない道を、十字架の死に至るまで歩み通して下さったイエス。このイエスに自分を賭け行くことなのです。

 愛する身近な者の死。そこには体験した者でなければ分らない堪え難い痛みがあります。死の力は容赦なく愛する者を奪っていきます。しかし、「わたしに出会ったあなたは 出かけて行き、神の国を言い広めなさい。」と主は言われます。イエスが天に挙げられたことによって神の国の福音は実現しました。それまで私たちを支配していた死の力はもはや意味を持ちません。いつまでもそこに留まっていてはならないのです。イエスを復活させた神の力が死を打ち破り、私たちを守り続けていることを証ししながら生きる者になれ、ということです。それがイエスによってもたらされた福音だからです。そこで初めて、私たちは愛する者の死とも 本当に向き合うことができます。イエスと共に旅立ち、清々しい福音の風に生かされながら、希望を持って生きることができるのです。イエスと共に旅立ち、神の恵みの中で生きる時、私たちは自分を縛っているいろんなものから解放され、イエスから頂く自由さの中で、本当に家族を大切にする者となるのです。