「自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、わたしにふさわしくない。」これは、私たちのために十字架を引き受けて下さったイエスの言葉です。私たちは、イエスに従って生きる者としてこの世に派遣されています。しかし、それは決して簡単な歩みではありません。私たち自身、様々な弱さを持ち、この世の力に翻弄されながら歩んでいます。イエスに従うことよりも、自分を優先してしまう私たちです。そのような私たちにイエスは語ります。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と。

私たちに求められている十字架とは、苦しみや悲しみの中で、神の導きを忍耐して待たなければならないことです。本当の十字架は、イエス・キリストが私たちの救いのために背負って下さったものです。そのイエスに従っていく歩みにおいて私たちも、自分の十字架を背負うのです。それは、死ぬまで負い続けなければならないものでもあります。しかし、その十字架は、既にイエス・キリストが背負って下さった十字架です。そこで私たちは本当の愛が何であるかを悟ります。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」(37節)この言葉も厳しいものです。私たちが依り頼んでいるものは何でしょうか。自分の命でしょうか。家族でしょうか。あるいは地位や財産…でしょうか。それともイエスご自身でしょうか。

イエスを信じて、イエスに委ねて生きるということは、イエスに依り頼んで生きることです。イエスのためにそうしなさいと言われているのではありません。私たち自身のためです。イエスを愛し、イエスに依り頼んで生きることによって私たちは、自分の命を、家族を、その他のものを本当に大切なものとして生きることになるのです。

 考えてみてください。元々、自分のものと言えるものは何も持っていない私たちです。これらを大切にすることができるのは、それらが神の恵みによって与えられているからです。しかも、神の独り子であられるイエスが、ご自分の命を身代わりとして与えても惜しくないと思われる程に、私たちの命は価値あるもの、大切なものなのです。その事を知ることによって、私たちも本当の愛が何であるかを知ります。苦しみや絶望の中において、まさに命が失われていくその中で、イエスは、私たちの命を心から愛して下さいました。その恵みに支えられて生きるのです。このイエスを信じ、愛し、依り頼んで生きるところに、人間の思いを超えた慰めと励ましが与えられます。そのイエスの慰め、励ましの中を歩むのです。主に従うとは、イエスによって招かれた私たちが、今置かれた場で、神の愛の計らいに信頼して生きていくことです。それが弟子の姿であり、キリスト者の姿です。

イエスを受け入れる者は、イエスをお遣わしになった父なる神を受け入れることです。イエスは父なる神から与えられた方です。私たちに与えられた役割は、自分の発見した真理を伝えるのではありません。私たちが伝えなければならないことは、イエスとの出会いにおいて体験した恵みの出来事です。神から与えられた恵みを伝えるのです。その恵みを人々と共に分かち合うために派遣された所へ出かけて行きます。それは、自分から出て行く歩みでもあります。そこで、イエス御自身の体験と繫がるのです。父なる神がその愛する御子を私たちのもとに遣わされた思いを知ることです。私たちはそのために招かれ、今ここに派遣されているのです。

「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」(41節)

昔、預言者は町から町へ歩いて旅をしました。この預言者を受け入れ、預言者を助ける者は、正しい者と同じ報いを受ける、とイエスは語っています。私たちが、預言者と同じ働きをしなくても預言者を受け入れるなら、預言者が受けるのと同じ報い、すなわち神からの祝福と恵みを受けるということです。その流れの中で、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と語っています。わたしを信じて歩むこの最も小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれるなら、あなたは神からの祝福を頂く。神はあなたのことを決して忘れない」という約束です。

イエスはこれを、救いの完成の時を待ち望む人々の中で語られました。ここで語られている「小さな者のひとり」とは誰のことでしょうか。私たち一人ひとりのことです。その小さな者の中に、あなたも私もいます。その私たちに、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人がいるなら、その人が示した行為を神は決して忘れない。永遠の命を得る…、と語っているのです。神は、それほどまでに、私たち一人ひとりを大切に思っておられます。誰かが、私たちに示してくれた愛の行いは、それがどんな小さなものであれ、私は決して忘れない、と約束しておられるのです。それ程までに、神は私たち一人ひとりの存在を心に留め、自分に与えられた好意として受け止め喜んでおられるのです。何と有り難いことでしょうか。

 毎日の生活の中で私たちは、どうしても周りからの評価を気にし、そこで一喜一憂してしまいます。しかし、私たちにとって本当に大切なことは、イエスが私たちをどのように思って下さっているか、ということなのです。それは、私たちが他者との関わりを生きる時にも関係してくることです。「あなたたちを受け入れる者は、わたしを受け入れる者である」(40節)私たち一人ひとりに、周りの人たちがどのように関わるか…という事を神は見ておられ、それはその人の救いと関係する程に重要なことだと語っているのです。

「小さな者」…それは、私たち一人ひとりのことです。神から愛されているこの小さな者に差し出された一杯の水の価値。それは、永遠の神に対してなされた愛の行為と同じ価値を持っていると語っています。人間のほんの小さな愛の行為でも、神の前においては永遠の価値を持つ程に尊い…。自分が愛する者に示した愛。私たちの神は、そこを決して見逃さない方です。

聖書の時代、水は非常に貴重なものでした。家族のために蓄えておいたその水を旅人に提供するということは大きな犠牲でしょう。相手が大きな存在であれば、ためらわずに提供するかもしれません。しかし、まさしくそこで、イエスの弟子たちは小さな存在です。冷たい水一杯でも提供する値打ちがあるかどうか、人間の常識では考えられない話しをイエスはしているのです。弟子たちは、それほど小さな存在でした。なぜでしょうか。それは、イエスの弟子であったからです。イエスの弟子になるとは、罪人として裁かれ、十字架上で処刑されたイエスの後に従う存在だからです。

弟子たちは初めから小さかったのではありません。イエスの弟子となるために彼らは、すべてを捨ててイエスに従ってきたのです。そして、その道をやっと歩み始めたとき、世の人々からは嘲られる小さな者となりました。そのとき、彼らは本当の意味で「小さな者」となりました。主に従って行く歩みの中で、弟子たちも徐々に「小さい者」とされていくのです。その小ささこそが、神の御前においては、とてつもなく大きな力を持つ恵みです。そのことを彼らは後から体験することになります。

パウロはイエスと出会う前、模範的なファリサイ人でした。自分こそは、非の打ち所のない立派なユダヤ人、神から選ばれた者であると信じていました。そのパウロが、復活のイエスに出会い、問いかけられ、イエスの呼びかけに応える使徒となりました。イエスに捉えられて初めて、自分が脆く弱い「土の器」であることを悟ったのです。そして、イエスと同じ道を歩む者になりたいと切望するまでに変えられたのです。かつて自分が迫害した教会の中で、イエスが歩まれた道を、イエスと共に、自分の十字架を担いながら、今度はイエスを救い主として証しする者に変えられたのです。そこで、小さい者としてイエスと共に生きる道をパウロは選びました。イエスと共に生きる共同体、それは「キリストの体である教会」です。イエスは今も、教会を通して私たちを導き、私たちと共に働いておられます。

  出エジプト記4章10-14に、モーセの召命物語があります。モーセは言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ者ではありません。わたしは口が重く、舌の重い者です。」

私たちも同じです。しかし、イエスの導きの中で神と共に生きるとき、私たちは小さな者でありながら、小さな者であるがゆえの「強さ」もそこで学びます。それは、福音をとおして学ぶ本当の強さです。私たちの愛の源泉もそこにあります。以前は、敗北と裁きの象徴でしかなかった十字架が、ある時から「神の赦しと愛を示す恵みのしるし」に変ったように…。私たちが立ち返るべきところはそこにあります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(39節)