待降節第3主日は「喜びの主日」と呼ばれています。教会は、救い主の降誕を待ち望む私たちに「喜べ」と宣言しているのです。

 昔、離散させられた神の民は、敵国の地にあってあざけりを受けながら堪え忍んでいました。その民に向かって神は「喜べ」、「恐れるな」と宣言されたのです。なぜでしょうか。それは、そのような試練の中にある人々と共に、神は寄り添っておられるからです。それゆえ、喜べない時でもあえて喜びなさい、恐れるな と宣言されるのです。

 民はひたすら救い主を待ち望んでいました。それがローマ帝国の圧政からくるものであっても、人々は自分の罪深さ、貧しさを知っていました。だからこそ、彼らはより強く救い主を待ち望んでいたのです。第一朗読で言われる「シオンの娘」とは、そのような人々の姿です。救いが実現する喜びの時が、もうすでに始まっている、間近に迫っている事を洗礼者ヨハネは語っているのです。

 今日の福音で、ヨハネのもとへやって来た人々は「私たちはどうすればよいのですか。」と聞いています。ヨハネは言います。「持っている人は、持っていない人に分け与えなさい。決められた額よりも多く取り立てはならない。金をゆすり取ったり、だまし取ったりしてはならない…。」ヨハネはあたり前のことをしなさいと告げただけでした。なぜなら、そのあたり前のことが行われていなかったからです。そして彼らに悔い改めを勧めます。あたり前のことをあたり前に行うことが、人間にとってどれだけ難しいことか…。それは今も昔も変わりありません。その生き方が積み重なることによって、人と人との関係はやがて崩れていきます。本当の救いがどこにあるかを、手探りしながら探し求めて生きている。それが人間の姿なのかも知れません。しかし、それがどこにあるか分かりません。そのような私たちにとって福音とは何なのでしょう。

当時の人々は、洗礼者ヨハネが救い主ではないかと思い 期待していたようです。そのような民衆の期待に対して彼は、「わたしは救い主ではない」と明言します。更に語っています。「わたしよりも優れた方がわたしの後から来られる。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。

「聖霊と火による洗礼」とは何でしょうか。「聖霊」という言葉は「風」という意味も持っています。「風」と「火」で想い起こされるのは聖霊降臨の出来事です。(使徒言行録2章参照)この言葉で示されていることは、神が力を持って私たちのもとに現存しておられるということです。聖霊と火による洗礼、それは神ご自身による業です。ヨハネが授けている洗礼、それはイエスの受難と復活から溢れて出て来る恵みと比較する事もできません。ヨハネはそのことを聖霊の助けによって意識しながら語っているのです。  

 脱穀やもみ殻についても語ります。麦の実と 殻は風によってふるい分けられます。同じように、私たちの生涯も、多くの苦難によって麦の穂のように踏みつけられ砕かれる体験をすることでしょう。そこに私たちの苦しみがあります。そのような世界に生きている私たちが、風に飛ばされないように、倉に収められる実りあるものにならせて頂けるとすれば どう生きれば良いのかということを彼は語ります。そこでヨハネが告げている事は、生涯において私たちが体験する数々の試練や苦しみ、それがいつの日か実りあるものとなり、天の倉に納められるという約束なのです。これこそ、私たちにとって、本当の喜びであり、救いの知らせではないでようか。それは、イエス・キリストの名による洗礼、聖霊の働きによって実現するものです。

 この後、状況はヨハネの逮捕という流れに変わっていきます。ヨハネはまだ「自分よりも優れた方」がイエスであるとは一言も語っていません。しかし、彼が指し示している方、それは 救い主イエス・キリストである事は確実です。この後、洗礼者ヨハネは消えて行きます。そして、救いの夜明けの中心は、イエス・キリストの生涯へと移っていくのです。それは十字架と復活へと向かうイエスの生涯であり、そこにおいて真の救いが実現します。その救いに生涯をかけて私たちも参加するよう招かれているのです。

クリスマスの準備を通して私たちは、共におられる神、インマヌエルの神を待ち望みます。具体的には、喜べない時にあっても あえて喜び、恐れにさらされている時にも「恐れるな」という神の声を聞きながら待つのです。神の約束に信頼しながら 日々を生きるのです。どんな時にも「喜びなさい。恐れるな」…救い主のこの声が、私たちの心にも届いているでしょうか。

 第一朗読で言われている「娘シオン」は、親しさ愛らしさを込め人格化された都エルサレムを指すと同時に、苦難の中にある人々に向けられた言葉でもあります。「主なる神は、お前のただ中におられる。ゆえに 喜びに喜べ」と、繰り返し告げられています。主は、あなたの存在を喜び、楽しんでおられるというのです。主は愛によって人々を造り変え、喜びをもって交わり、楽しまれる方なのです。

 第二朗読においてパウロも語ります。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。イエス・キリストにあるならば、そこにはいつも喜びがあります。私たちにとって、本当の喜びはイエスと共にあることによって体験されるものです。この主が、すぐ近くまで来られたことに注意を向けなさい、と語っています。これほどの恵みは歴史上、未だかつてなかったことだからです。今この時も、イエス・キリストは、聖霊の働きによって私たちのすぐ近くにおられます。

 私たちは、苦しみの時、悲しみの時、祈ることさえ出来ない時があります。暗闇の中で出口が見えず、身動きが取れない時、私たちの目は覆われてしまいます。私たちの心は、神から見捨てられたのではないか、と考えることさえあります。しかし、主は すぐ近くにおられるのです。たとえ、孤独の中にあっても、主は聖霊の働きを通して 誰よりも近くにおられるのです。

 私たちが負いきれないこと、耐えきれないこと、悩み、苦しみ、そのすべてを担うために、主は来て下さいました。神に見捨てられたと叫ぶ人々のところへ、主は来られました。そして、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と彼等に代って叫ぶ者となられました。そのために生まれてくださったのです。この主のまなざしは、決して私たちを見失うことはありません。

 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。思い煩ってはならない」と言われるのです。もうすでに、神のはからいもとにあって頂いている恵みを感謝することが先なのです。神は、一人ひとりに必要なものすべて備えて下さっています。この神に、あなたの心を注ぎ出し、打ち明けなさいと言われています。私たちは、ここから生まれる神の平和の中で生きるよう招かれています。思い煩わなくてよい、キリストの平和の中で、安心して生きなさい…と言われているのです。その喜びの中で、互いにゆるし合い 助け合って生きる力を願います。そして、キリストの体である教会を共に築いていくのです。主において共に喜びましょう。主が、私たちのうちに生まれる日は近づいています。