6月は、「イエスの聖心の月」です。主の聖心を思いながら今日の福音を受止めましょう。 

 イエスを追って来た大勢の群衆。この人々を前にした弟子たちは、心配してイエスに言っています。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのですから…」。しかし、イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と弟子たちに命じます。ここに描かれているのは、群衆を迎え入れるイエスの姿と、同じようにその人々を迎え入れる役割が与えられた弟子たちの姿です。しかし、弟子たちにとってそれは難しいことでした。パン五つと二匹の魚しかないこの状況の中で、大勢の群衆に食べ物を与えることなど初めから無理な事だったからです。もちろん、それはイエスも分っていました。弟子たちがどんなに頑張っても、群衆を満足させる事はできません。それでもイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言っておられます。

 どうすればよいか分らず、途方に暮れている弟子たちにイエスは命じます。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と。そして、彼らが持っていた五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、弟子たちに渡して群衆に配らせます。すると、すべての人々が食べて満腹したのです。そんなことがあり得るのでしょうか。この出来事にどんな意味があって、二千年も語り伝えられてきたのでしょうか。

 弟子たちは、群衆を満たすだけのものを持っていません。しかし、彼らは自分の持っている僅かなものをイエスに差し出しています。イエスはそれを受け取り、祝福し、弟子たちに返されます。弟子たちがしたことは、それを人々のもとに運んだだけです。それが、イエスの言われる「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」という言葉の意味でした。

 そこで弟子たちが学んだこと、そして、そこで群衆が受けたものは何だったのでしょうか。群衆がパンと魚を食べて満腹したというだけの話しのために、福音書が書かれたのではありません。少ない中でも彼らが満たされたから、天からの恵みを共に分かち合うという喜びの体験こそが、この物語の中心にあるのです。そのパンは、弟子たちからではなく天から与えられたものです。それに気付く事が重要なのです。

 弟子たちは、先祖イスラエルの民が、かつて荒れ野を彷徨い歩いていた時、「マナ」と呼ばれるパンによって養われたという出来事(出エジプト16章参照)を思い起こしたことでしょう。荒野を彷徨っていた人々がそこで味わった体験とは、まさに神と人とが共にあり、人々が互いに支え合って恵みを分かち合う「神の国の喜び」の体験だったのです。何でも願いどおりに願いが叶うから幸せではありません。予期せぬ不安と困窮の中から、本当の信仰の旅が始まるのです。

 ここでイエスが唱えている祈りは、ユダヤ人なら誰でもが知っている食事の際に捧げられる讃美の祈りです。私たちの日毎の食べ物は、ただ身体を養うだけでなく、神と人々との交わりを示しているものです。食事が本来持っている喜びは、神と人々との親しい交わりを体験するためのものなのです。その食卓の主は、イエス・キリストご自身です。

 聖体の祝日に、私たちが思い起こすのは言うまでもなく「最後の晩餐」の出来事です。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」(22:19)。

 「これはわたしの体である」と言われた主は、十字架において自分自身を渡されました。私たちのために、ご自分の命を引き裂くまでに与えてくださった主でした。私たちが神と共に生きるようになるために…。この主のみこころを思い起こしましょう。

 昔、旧約の人々が荒野で体験した「マナの体験」にしても、ガリラヤの草原で五千人の人々を満たされた「パンの奇跡」が指し示している事も、実はこの十字架における神の御子イエスの引き裂かれた御体です。そこから目を逸らしたら、パンの奇跡の本当の意味が分らなくなります。

 主は、御自分の体を弟子たちに与えながら「これは、わたしのからだである」とおっしゃいました。主は、今日も私たちに語りかけておられます。「わたしが迎え入れた人々に、あなたがたも神の命を差し出す者となりなさい。そして、彼らと共に主の命を分かち合い、喜びに満たされる者になりなさい」。

 最後の晩餐の席で主は弟子たちに言われました。「これをわたしの記念として、世の終わりまで行いなさい」と。その食事は、二千年後の今日も、世界中の教会で、毎日行われるミサを通して現実のものとなっています。私たちは、そこから新しい力を頂きます。ミサは、時間と空間を超えて世界中の教会と私たちを結びます。私たちは、ミサの度に、二千年前のあの「最後の晩餐」の席に、秘跡的に、直接参加させて頂いているのです。

 聖体の主日後の金曜日は、「イエスのみこころ」の祭日です。この祭日は、聖体の秘跡と深く結び付いています。当日の第一朗読は、エゼキエル34章11節以下です。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。・・・ わたしは彼らのために一人の牧者を起こし彼らを牧させる」。

 福音は、ルカ15章の「見失った羊のたとえ」です。このたとえの中心にあるものは、羊を見つけた羊飼いの「喜び」です。羊飼いは、見つけ出した羊を自分の肩に担いで帰ります。愛である神は、このように、人間を探し求めておられるのです。私たちが神のもとへ立ち返ることが、神にとってどれほど大きな喜びであるかが示されています。いつもイエスの心を満たしているのは、この喜びです。天の国の喜びです。何のためにイエスがこの世に来られたのか、ということがそこで語られているのです。

「悔い改める必要のない人々…」など果たしてこの世にいるのでしょうか。「悔い改め」とは、イエスに見つけられ、イエスのもとに帰ることです。人間の側から言うならば、イエスを受け入れるということです。だから、他の九十九人のことなどまるで忘れたかのように、見つかった一匹の羊の事を主人(神)は喜んでいるのです。この大きな喜びの背景には、神の大きな悲しみがあったことも暗示されているのです。見失った一匹のために羊飼いは、残された九十九匹のことも、自分のことも忘れしまう悲しみのどん底にありました。いても立ってもいられなくなって、全てを忘れて、羊飼いである主は私たちを捜しに出かけてくださいました。この主の悲しみこそ、神が私たちに対して持っておられる愛の悲しみです。主の心を知ろうとしない人間に対する愛ゆえの悲しみなのです。

 私たちは創造主である神の心を忘れて歩んでいます。そのために神は、羊飼のように、私たちを追い求めておられるのです。この羊飼いの姿こそが、イエスの姿です。どんなに見捨てられた貧しい者であろうと、主のみこころは私たちをどこまでも捜し求めておられます。私たち一人ひとりを必死に捜し求める神のこころに気づくところから信仰が生まれます。神から愛され、求められている自分の現実…、これに目覚めるところから私たちの信仰は始まります。