イエスは弟子たちに、「恐れるな」と語りかけておられます。それはまるで、狼の群れの中に送られる羊のようなものだからです。遣わされる弟子たちにイエスはそれなりの覚悟を求めているのです。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(26節)。

 福音とは、イエスにおいて既に神の国が始まっている、という知らせです。それは、地上においては「覆われているもの、隠されているもの」なのです。弟子たちを含め、当時イエスを見た人々にも、イエスが救い主であられることは隠されていた神秘です。

 私たちは、教会の教えによってイエス・キリストを知ります。しかしそのイエスがまことの神であり、救い主であることは証明できるようなことではなく、信仰によって受け止めるしかないことです。多くの人には覆われ、隠された神秘だからです。しかし、それは必ずあらわになり、はっきりと知られる時が来る、というのもイエスの約束です。それはいつなのでしょうか。私たちには分かりません。イエス・キリストがもう一度この世に来られる時、救いの完成の時です。その時には、誰の目にも明らかになり、神の救いのみ業が完成されます。「体を殺しても、魂まで殺すことはできない者どもを恐れるな」(28節)と語りながら、父なる神がどのような方であるかを教えようとしておられるのです。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっているではないか」。

この神をこそ畏れなさい、とイエスは語ります。この方こそ「私たちの父」であり、この方が、私たちの全てを知っておられます。この父に信頼して自分を委ねる時、私たちは恐れから解放されます。私たちを妨害する全てのものに勝る神の愛が注がれるからです。私たちにふりかかるどんな災いも、神の配慮の中の出来事です。一羽の雀さえも、神の配慮の中にあることを思い起こさせながら、この神の愛に信頼して歩んで欲しい、というイエスの切なる願いがここに滲み出ています。

 どうすれば、その神の愛を知り、その下で生きるようになれるのでしょうか。それはイエス・キリストを通して、イエスと共に生きることによってです。イエスに従い、またイエスによって遣わされていくことの中で、「一羽の雀さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(29節)という主のみ言葉を聞くのです。しかし、その時、全ての苦しみや悲しみがなくなるということではありません。イエスに派遣されて歩む私たちは、「狼の群れに送り込まれる羊」であり、「一羽の雀」に過ぎないことに変わりはないからです。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人から憎まれる」とも語っています。信仰さえあれば、不安や恐れがなくなる、全てが上手く行くということではないのです。実際、歴史の中で多くの殉教者たちが生まれています。そのような人々の痛み、苦しみを教会は知っています。しかし、どんな迫害があろうと反対者に出来ることは体を殺すことくらいだとイエスは語ります。その人々の魂に手を出すことは、決して許されていないからです。

私たちが不安を覚え、自分からは決して行かないであろう所へもイエスは私たちを派遣されます。そして、「恐れるな、わたしがあなたと共にいるから。そこであなたはわたしと出会うことになる」と語っているのです。これは、「ただ全ての苦難に耐えろ」と言っている訳ではありません。これは、私たちに勇気を与える言葉です。これから派遣される弟子たちに向かって、イエスはこの言葉を語っているのです。

神は、私たちの体の大切さを誰よりも良く知っておられる方です。イエスの言葉を聞いた弟子たちは、その後はどうなったでしょうか。彼らも死を恐れました。十字架につけられるイエスを見て逃げ出しました。自分の命を守ろうと、イエスから離れる弟子たちの姿まで聖書はありのままに伝えているのです。しかし、イエス本人は最後まで逃げ出すことなく、大きな痛みと恐怖を覚えながらゴルゴダの丘に向かいました。そして最後は、自分の十字架を受け止め死なれたのです。それは、弟子たちの代わりに、そして私たち一人ひとりのためになされたことです。一人の人間として生まれたイエスは、この時全ての人間の恐怖心を受け止め、味わいつつイエスは死なれたのです。私たちが受けるべき報いを代わりに引き受け、地獄の底にまで下って行かれるイエスの姿。このイエスの姿を見なさい。彼の後について行く者に、御父は救いを約束しておられるという約束です。復活されたイエスと出会った時、弟子たちも初めてそのことを理解しました。

イエスについて行く私たちに対しても、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の言葉が宣言されています。神の愛に自分を委ねきることのできない私たち、すぐに逃げ出してしまいそうな私たちですが、そのような人間の限界を承知の上でイエスは語っておられるのです。

そのイエスが、今私たちのために、御父に取り成しておられるのです。「この人々は、まだあなたの愛の力を知りません。本当の信仰も知りません。だから恐れを抱いています。しかし、お赦し下さい。わたしの名に免じて彼らをお赦し下さい。この人々と共に、あなたのもとにわたしは行きたいのです」と。何という恵みでしょうか。このイエスの執り成しの祈りがあるからこそ、私たちは十字架を前にしても安心し憩っていられるのです。このイエスの執り成しの祈りに支えられているからこそ、たとえ不安の中にありながらも、あなたに向かって歩むことが出来るのです。それこそ、私たちが目を見開いて本当に見なければならないものです。その時、神の愛から来る勇気が、私たちを立ち上がらせます。イエスを通して、今まで敵であった者同士が兄弟姉妹へと変えられます。その神の愛の力強さを私たちは体験しているのです。「世の終わりまで共にいる」という神の約束は大きな力と勇気を与えてくれます。不思議なことに、そこでは私たちの弱ささえも神の愛の力強さを示すものと変わります。ですから、恐れる必要はないのです。このイエスがもたらす恵みを私たちは全地に告げ知らせるのです。

戦争をひき起こそうとする人々は恐怖心をあおり、暴力に巻き込もうとします。ですから、「本当に大切なものがどこにあるかを見極め、恐れることなくわたしについて来なさい」とイエスは私たちを励ましておられます。「イエスの恵みの賜物が、多くの人に豊かに注がれることを望みながら、そのために私を用いて下さい」(第二朗読ロマ5・15)とパウロと共に祈りながら、……。