イエスが弟子たちの元を去り、見えない存在になる……、弟子たちにとってそれは心細い、不安なことです。けれども、 そこに与えられる恵みがあります。それが聖霊です。去っていくイエスに代って、聖霊が弟子たちを教え導きます。そして、全世界へと派遣されて行きます。教会はそのようにして生まれ、成長してきました。教会はイエスが弟子たちの目の前から離れ去って行かれたところに誕生した神の恵みの場です。イエスによって実現したこの救いのみ業は、この教会を通して前進していきます。聖霊によって生まれ、聖霊の導きのもとに歩む教会の中で、神の御業は前進していくのです。私たちはその只中に置かれています。私たちは、弟子たちのように復活されたイエスの姿をこの目で見たり、手で触れることはできません。何故でしょうか。そこにも深い意味があります。

イエスはもはや死ぬことのない方として復活し、目に見える姿をもって弟子たちにご自身を現わされました。しかし、二千年後の私たちは、復活されたイエスをこの目で見ることはできません。それは、イエスが天に昇り、目に見えない方となられたからです。その代り、聖霊が弟子たちに降り、力を与え、彼らをイエスの証人として全世界に派遣されました。その聖霊が、今の私たちにも働いているのです。ですからイエスの姿をこの目で見ることができないことを嘆いたり、心細く思う必要はありません。教会の歴史は、イエスの昇天から始まりました。イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、聖霊が与えられ、神の力が豊かに注がれているのです。イエスが天に昇り、見えない方となられたことは、神の救いの恵みの前進なのです。これによって私たちは、いつ、どこでも、復活されたイエスと共に歩むことができるのです。イエスがいつ、どこでも、私たちと共にいて下さることを信じることができるのは、聖霊が私たちの中で働いて下さっているからです。イエスが昇天し、目に見えない存在になられたことを前提に福音は語られています。

昇天は、最後の出来事ではありません。天に昇られたイエスは、またおいでになると約束されました。その時、今は隠されている救いのみ業が明らかにされるでしょう。地上の教会の歩みは、イエスが天に上げられてからまたおいでになるまでの間の歩みです。この間、私たちはイエスの姿をこの目で見ることはできません。しかしこの間、私たちは聖霊の働きを受けて歩みます。イエスが約束された聖霊の導きによって歩むのが教会だからです。その教会に連なって生きる私たちは、目には見えないけれども、復活して永遠の命を生きておられるイエスと共に生きる恵みが与えられています。その恵みの大きさを思い起こしましょう。そのイエスがいつかもう一度、目に見える姿で来られ、神の救いのみ業が完成することに希望を置いて歩むのです。主が昇天され、弟子たちの目から見えなくなった時、彼らは決して悲しんではいませんでした。むしろ、喜んでいます。それは共にいて導いて下さる主を、以前よりもはっきりと知る者となったからです。そこに、私たちも招かれているのです。私たちに聖霊の恵みを与えるために天に昇られたイエスです。私たちの一番深いところで、今も共に歩んで下さっています。その事を悟らせて頂ける恵みを求めながら、主が与えようとしておられる聖霊の賜物を願いましょう。