教会が誕生するにあたって、イエスが弟子たちに求められたことは「聖霊を待ちなさい」ということでした。間もなく、あなたがたに父が約束して下さった聖霊が降る、それによってあなたがたは力を受け、全世界へ派遣されていくと言われたのです。弟子たちは、祈りながらその聖霊を待っていました。そして、ユダヤ人の最大の祭である「過越の祭」から五十日目に聖霊が降ります。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。
風は目に見えません。しかし、確かに私たちに働きかけています。聖霊が、新しい風として弟子たちに吹きつけ、彼らを新しくしました。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。
決定的な神と出会い、関わりを持つとき、人間を内面から変える大きな変化が起ります。それが、弟子たちが体験した「炎によって焼き尽くされる体験」だったのです。かつて、モーセも神の山ホレブで、同じ体験をしています。神は、燃え上がる柴の炎の中からモーセに語りかけました。そして、「これ以上近づいてはならない。これ以上近づいたら焼き尽くされずにはおれないから……」という激しい体験の中で、神との新しい出会の恵みが与えられ、新しい使命を受けています。モーセの召命の体験です。(出エジプト3章cf.)聖霊の働きは神ご自身の働きですから、人間の努力や内面の働きから生じてきたものではありません。
「炎のような舌」とは、どういう意味なのでしょうか。ここにも深い意味があります。神ご自身からの力が弟子たちに直接働き、一人ひとりに語る力が与えられたということです。恐怖心で、それまで閉じ籠もっていた弟子たちは、爽やかな聖霊の風によって新しく生かされる者に変えられて行きました。
御父が、聖霊によって生まれさせた教会。この教会を通して、この後どんな恵みのみ業が繰り広げられて行ったかを、私たちは初代教会の中に見ています。聖霊降臨の出来事の中に、将来の教会の姿も凝縮されています。ここから、神が教会において今も実現して下さっている恵みの豊かさを知ることができます。
この日、聖霊を受けた弟子たちに起ったことの本質をも見ておかなければなりません。それは、「彼らが、神の偉大な業を語り始めた」ということです。「神の偉大な業」……とは何でしょう。それこそ、イエス・キリストにおいて起ったことです。神の御子イエスが、私たちと同じ人間としてこの地上に生まれ、身体をもって人間の人生を体験し、私たちの全ての限界を引き受けて十字架上に死んで下さったこと、そして父なる神は、このイエスを死者の中から復活させ、私たちにもイエスの命、復活の命に繫がる恵みを約束して下さったということです。イエス・キリストにおいてなされたこれら一切の救いの出来事を弟子たちは、聖霊を受けることによって初めて理解し語る者とされていきました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
このイエスの約束が実現した時です。聖霊は私たちに、何を語れば良いかをも教えてくださいます。また、語られたその言葉を理解させて下さるのも聖霊の働きです。聖霊は、語る者にも聞く者にも働きます。そのような聖霊の働きがここから開始され、現在の教会まで伝えられ、今も同じように働いているのです。私たちも、初めに聖霊の導きがあってイエスに出会わせて頂きました。聖霊が働かなければ、どんな素晴しい言葉が語られても福音は伝わりません。信仰も生まれません。しかし、聖霊が働いているなら、どんな人間的違いも問題ではありません。言葉や文化や生活習慣がどんなに違っていても、その違いは乗り越えられ、神の偉大なみ業が伝わっていくのです。聖霊は、違いある私たちを一つに結んでくださる神の力です。
教会は、世にあって、この聖霊の働きを祈り求める役割を与えられています。それは特別な勉強をすることによってでも、知識や技術を磨くことによってでもありません。大事なことは、私たちが何かをするのではなく、聖霊が新しい出来事を起して下さることを祈り求めるのです。しかも、自分と関係のないところにではなくて、この自分に、聖霊が働いて下さり、語る言葉が与えられるよう、祈り求める者になりなさいということです。ですから、聖霊は、この私たちの弁護者です。聖霊は、世の罪を明らかにすると同時に、私たちに与えられている救いをも明らかにして下さる方です。聖霊は弁護者であると同時に、私たちを「慰め、励ます存在」でもあるのです。
「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)。
聖霊が来て下さることによってこそ私たちは、神の救いの真理を悟ることができるのです。父なる神と御独り子と聖霊の働きによって、私たちに与えられている救いの神秘が明らかにされます。神は、その独り子をお与えになったほどにこの世を愛されたと聖書は語っています。その独り子の死と復活によって、救いが実現したのです。聖霊は、その救いの真理を私たちに悟らせて下さいます。私たちはイエスの姿を見ることはできません。そこには不安や恐れもあります。しかし、イエスから遣わされた聖霊がいつも私たちと共に歩み導いて下さるから安心して生きることができるのです。「聖霊 来て下さい。信じる人の心を照らし、あなたの愛の火を燃やして下さい……。」