多くの人々は、子供たちの健やかな成長と祝福を求めてイエスのもと来ています。しかし、弟子たちはイエスがこれから向おうとしているエルサレムへの旅で、自分たちには予測することも難しい重大な事が起りそうな雰囲気を感じとっていたのかも知れません。間もなく、イエスは捕えられ、十字架につけられ殺されることになります。このエルサレムへの旅は、十字架の苦しみと死へと向う旅になりました。イエスはそのことをはっきりと自覚しておられたのです。 たくさんの人々が押し寄せて来る中で、イエスの負担を減らそうとする弟子たちの気持ちも分ります。押し寄せてくる人々は、自分の都合しか考えていなかったでしょう。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。…… 神の国は、このような者たちのものである。」
神の国は、イエスの福音の中心です。イエスの言う”神の国”とは、神の支配という意味です。神が恵みをもって私たちを受け入れ、神の愛の計らいによる人生が実現しようとしている…、と語っておられるのです。イエスがなさった奇跡は、この神の恵みの目に見えるしるしです。この神の愛を私たちに示し、その恵みに与らせるためにイエスは来られたのです。その恵みに私たちが与ることができるとすれば、私たちは子供のような心を持って、神のもとに安心して憩う者にならせて頂く必要があるのです。
「子供のように」とはどういうことでしょうか。汚れを知らない純真な者になれ……、ということではありません。子供たちの世界にも陰湿ないじめがあります。子供もやはり罪を持っているのです。ですから、イエスは 子供を理想化して語っているのではありません。
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
大切な事は、「神の国を受け入れる」ということです。汚れを知らぬ純粋な者になれ、ということではなくて、たとえ罪深い者でも、ゆるしの神に信頼して、委ねる者になりなさい…、と語っているのです。その模範として、親に信頼して立ち上がる子供の姿が示されているのです。イエスが伝えようとしておられる事は、単に従順で素直であれば良いという話しではないのです。「子供のように……」という言葉の意味は、子供たちの持っている長所や素直さなど、良い所だけを見て語っているのではありません。ここに出て来る子供たちは、自分の意志でイエスのもとにきたのではありません。親たちに連れて来られた子供たちです。しかも、イエスが宣べ伝えておられる神の国を理解している訳でもないのです。誰かに連れて来られるままに来たのです。その先のことは何も分っていません。子供は、神の恵みを頂くしかない存在です。イエスはそのような子供たちを迎え入れ、彼らを祝福しておられるのです。それは大切なところです。子供たち一人ひとりを抱き上げ、その存在の全てを祝福しておられるのです。”神の恵み”とは、このようにして与えられるものなのです。神の恵みに与るために、何らかの資格は必要ありません。同時に、子供のように ただ無邪気で素直であればよい、ということでもありません。自分の中には、神の国に入るに相応しいものなど何もないのに、ただ神の恵みと憐れみによって私たちは、神の国に迎え入れられるのです。イエスは、そういう恵みを私たちに示して下さいました。
ここで、イエスが弟子たちを叱っておられるのはどういう理由からでしょうか? 弟子たちにしてみれば、自分たちは全てを捨ててイエスに従い奉仕しているがゆえに、神の国の祝福に与るに相応しい資格があると考えていたのではないでしょうか。そのような思いに対してイエスは憤っておられるのです。
私たちが立派な奉仕や活動をしているからイエスの祝福に与れるのではありません。様々なものを投げ打ってイエスに従っているからでもありません。イエスから招かれ、イエスご自身が呼んでくださった恵み以外の何ものでもありません。そのことが分からず、自分たちこそは、神の恵みに与る資格のある者と思って、他の人々を斥けようとする弟子たちの姿に、イエスは憤っているのです。神の民として私たちが生きられるとすれば、私たちの側の功績によるものではありません。私たちを選び、ご自分のものとして招き集めて下さった神のみこころによるものです。
イスラエルの民が、神の民とされたことも同じです。彼らが、他の民と比べて立派な民だったからではないのです。むしろイスラエルは、他のどの民よりも貧弱な民でした。そのイスラエルが選ばれて神の民とされたのは、彼らに対する神の愛のゆえでした。この愛のゆえに、神は彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、ご自分の宝の民とまでして下さり、そこから世界を救う神の計画が動き始めます。私たちに出来ることはただ一つ。神の選び、神の救いの計画を驚きの中に受留め、感謝のうちにそのみこころの協力をさせて頂くことです。
イエスの十字架と復活によって成し遂げられた救いの恵みに信頼して生きようとする時、私たちの中にも同じ事が起ってきます。そこで神は私たちを抱き上げ、私たちの人生の全体に手を置いて祝福して下さっています。この祝福のみ業に、私たちも仕える者となるよう、神は私たちを召し出して下さっています。教会へ集って来る人々に、イエスから頂いたこの祝福を伝える者となるよう私たちも招かれています。そこにおいては、私たちの不完全ささえも、神のゆるしと愛を輝かすものに変えられていきます。神の愛のみが、すべてにおいて すべてとなりますように……。