「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」。(38)

 イエスの名前を使って悪霊を追い出している人々に対するヨハネの反応です。ヨハネは、その人たちが自分たちの敵と判断しています。この、イエスの名前を使って悪霊を追い出している者とはどういう人々のことなのでしょうか。

当時、イエスのみ業によって救われた人々は大勢いたことでしょう。「イエスの名前を語って……」とは、イエスの権威を用いることを意味しています。ある人々は、イエスの弟子でもないのに、イエス・キリストの権威よって悪霊を追い出していたのです。

悪霊というのは、人々を神から引き離そうとする力のことです。ですから、悪霊を追放するとは、神から引き離そうとする力から人々を解放し、神の下に立ち返らせることを意味します。ここで、問題となっている人々は、イエスの弟子とは言えないにも関わらず、イエスの名前だけを用いて、もしかしたら 自分たちの利益のためにイエスの名前を用いて癒しのみ業を行っていたのかもしれません。イエスの弟子でもないのに、イエスの名前を使ってそのようなことをしている人々を見て、ヨハネはやめさせようとしたのです。そのような思いの背後には、自分たちこそイエスの正統な弟子として ここまで生きてきたという誇りがあります。自分たちこそ、キリストの真の弟子であるという思いから、自分たちだけがイエスの権威を用いることが出来ると考え、やめさせようとしているのです。

そのようなヨハネに対してイエスは、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。… わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と答えています。

自分たちこそイエスの正統な弟子であるという思いから、イエスの名前を使っていた人々を敵視するまでになっていた弟子たち。イエスはそこに、危険を予測しています。熱心さの余り、敵とする必要のない人々まで敵としてしまう危険がそこにはあるからです。それは、私たちの信仰においても言えることです。

ヨハネをはじめ弟子たちは、誰よりもイエスに従って歩みたいと望んでいたでしょう。その思いから、自分でも気付かないうちに、いつの間にか自分を誇り、自分の栄光を求めていたのです。弟子たちのそのような姿まで、聖書は正直に述べています。

 マルコ9・14~29には、息子を持つある父親が弟子たちに悪霊を追い出すよう頼んだことが書かれています。しかし、弟子たちには悪霊を追い出すことが出来ませんでした。その理由についてイエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ない」と語っています。それは、奇跡が人間の力によってではなく、私たちを救おうとする神のみこころと権威に基づいてなされていることを意味しています。

弟子たちはイエスに従う決意で集まってきた人々です。しかし、いつの間にか、主の権威により頼み、神のみ業を証しするという大切な事を忘れてしまっていたのです。自分たちには、悪霊さえも追い出すことが出来る力が備わっていると傲慢になっていたのかも知れません。イエスの弟子とは、イエスの招きに応え、イエスと共に歩む生き方を選んだ人たちです。しかし、彼らは その歩みの中で「イエスの弟子である」ということを、何かの特権であるかのように思い込んでいたのです。イエスの後を歩んでいるかのように見えながら、彼らがそこで求めていることは自分の栄光でしかありませんでした。そのような、弟子たちの無理解はこの後もいろんな所に表われます。十字架と復活についてイエスが語られているにもかかわらず、自分たちの中で誰が一番偉いかと議論する弟子たちの姿などはその典型です。(9・30参照)

 「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)。

「たとえ、あなたと同じような価値観で共に歩んでいなくても、あなたたちを理解し、一杯の水でも飲ませてくれるのであれば、その人々はあなた方の味方である」とイエスは語っているのです。

 日本において、キリスト者は少数です。しかし、キリスト者でなくても、あなたたちを理解し、協力してくれる人々は、あなた方の味方である…ということです。自分と同じものの見方をしているかどうかで敵、味方を判断してはいけないのです。そこには、自分の生き方こそ正しいものと思い込み、自分を誇る誤りがあります。そのような時私たちは、どんなに熱心に信仰を生きていてもキリストに仕えるのではなく、自分の思いに仕えているのです。そして、本来、味方である人まで敵にしてしまっているのです。ですから、私たちは常にイエスの言葉を思い起こす必要があります。イエスは、私たちを救うために十字架にまでかかって下さいました。私たちがどれだけ神の期待を裏切っても、イエスは決して私たちを見捨てることはありません。そのことの保証が十字架の出来事です。そこに、神の大きな思いが込められています。

この神の思いに出会った人の人生は大きく変えられます。イエスの愛を知らされる中で、私たちの生き方の基準も変えられていくからです。たとえ、考え方や生き方が異なっていても、イエスがその人々を味方としていることに気付かされたなら、私たちもイエスの御業が前進することを喜び、彼らと共に生きる生き方に変えられていくことでしょう。たとえそこに、たくさんの失敗や不完全さがあろうと、神に栄光を帰す生き方となっていくのです。人間の計画や思いを超えた中で、神の導きを生きるよう私たちは招かれています。