今日から始まる「聖週間」、私たちはイエスの最後の一週間を思いつつ歩みます。聖木曜日は最後の晩餐、聖金曜日は主が十字架上で亡くなられた日、そして日曜日は「復活の主日」となります。一年間の典礼の頂点となるこの一週間を、私たちは特別な思いで受け止め、イエスの歩みに同行したと思います。
イエスは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」すなわち、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びと共に息を引き取りました。十字架上のイエスが最後に語ったこの言葉を、私たちはどのように受け止めれば良いのでしょうか。この言葉は、神に見捨てられてしまった者の叫び、絶望の叫びです。弟子たちも皆逃げ去り、父なる神からも見捨てられたような状況の中でイエスが語った言葉です。絶望の内に死んで行く者の嘆きの言葉です。このような悲惨な最後を迎えた者が、なぜ「救い主」であると聖書は語るのでしょうか。そこが大切なところです。イエスが嘆きの中で最後に語った言葉、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」という言葉は、詩編22・2の祈りの言葉です。マタイ福音記者が語るイエスは、詩編のこの言葉を口ずさみながら死んでいきました。なぜ、神の御子が御父に見捨てられ絶望の内に死んでいくのでしょうか。
この詩編の言葉は、見捨てられた者の絶望を語っているように見えながら実は、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を告げ知らせよう」(22・31~32)という信仰の歌です。イエスの十字架を通して私たちが本当に見つめなければならないのはそこなのです。
そもそも、イエスはなぜ十字架にかかって死なれたのでしょうか。イエスの死を他人事として外から眺めている間は、私たちはまだ、その本当の意味が分りません。イエスを十字架につけたのは私たちです。私たちが、イエスを十字架につけているのです。私たちは神からの語りかけを受けても自分を守る生き方しかできません。それが私たちの弱さなのです。そのような私たちの自己中心的生き方がイエスを十字架につけているのです。私たちは、何度もイエスを十字架に追いやっています。ある人々は、イエスを罵って言います。「もしお前が神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。そしたら信じてやる」(42節)。「他人を救ったのに、自分は救えないイスラエルの王。今すぐ十字架から降りて来い。そうすれば信じてやろう。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから……」(43節~)。これが私たちの姿です。
捕えられた時、剣を抜いて抵抗しようとした弟子たちにイエスは言っています。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、十二軍団以上の天使を今すぐにでも送ってくださるであろう。あなたの剣をさやに納めなさい。」と。(26・53参照)。
本来ならば、イエスを十字架につけ、罵り嘲り、死に至らせている私たちこそ神に裁かれるべき者です。しかしイエスはそれを望まれません。それどこらか、私たちが受けるべき十字架の苦しみをご自分の身に引き受けて下さったのです。神の独り子である方が、私たちに代って十字架にかかって死んで下さった……。こんな事を誰が信じるでしょう。ここに、神の愛の深さを知ります。イエスは、私たちの叫びを聞き、私たちに代って苦しみを引き受け、死んで下さったのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」……。この叫びは神に見捨てられた者の叫びです。この叫びは、本来私たちの叫びなのです。それを神の御子が、私たちと共に叫んでおられるのです。本来私たちが受けなければならない絶望の死を、イエスは私たちに代って引き受けておられるのです。それがあの十字架の出来事です。昼の十二時から三時まで全地が暗くなった……。本来、私たちが背負うべきこの世の闇を背負うイエスの姿がここに示されています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」それは、絶望の叫びです。私たちの絶望を、イエスは背負い、その中で死んで下さったイエス。それが、十字架の出来事でした。イエスの最期の言葉は、神に見捨てられ、呼び求めても答えてくださらない嘆き中にある人間が、それでもその中で、共にいて助けて下さっている神を信じ、その神から与えられる希望を語っている言葉です。このようにしてイエスは、私たちの痛み苦しみの中で、私たちに代って、神への信頼を最後の最後まで歩み通して下さいました。この神と、最後まで自力で繋がり続けることは人間には出来ません。イエスの十字架があって初めて可能となる恵みです。あなたの現実がどれ程悲惨なものであっても、あなたはその中でなお「わたしの神よ」と呼ぶことができる、この神と共に歩むことができる……、とイエスは約束して死んでいかれました。ここから、私たちの救いの希望が始まりました。私たちは、このイエスの祈りに結ばれて、今も信じさせて頂いているのです。信仰は最高の神からの恵みです。イエスが十字架上で、私たちのために苦しみながら息を引き取られたことによって実現した救いの恵みです。
その時、不思議なことが起こりました。神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。それは、人間が入ることの出来ない神殿の至聖所と聖所とを隔てる幕でした。罪人である私たちが神と共にあることはできないということを示しているものでした。その垂れ幕が、イエスの十字架の死と共に真っ二つに裂けたのです。これによって、神と人とを隔てていたものが取り除かれたということです。神の御子イエスが、私たちに代って死んで下さったことによって、私たちは何の隔てもなく神のみ前に出ることが許され、神と共に生きることが可能となったのです。これは、イエスの死によって実現した恵み、そしてイエスの復活において明確にされた救いの恵みです。
イエスを罵りながら「それでもお前は神の子か、ユダヤ人の王か」と言ったその人々が、イエスの最後を見て「本当に、この人は神の子だった」と語っているのです。この人々の体験が、最初の信仰告白となりました。イエスを十字架につけ、嘲っていた人々が信仰を告白する最初の者とされる……。これこそ、神の大きな奇跡ではないでしょうか。マタイでは、百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちがこの告白をしています。
もし、私たちがその場にいたとしても……、イエスの十字架の出来事を外から眺めているだけでは、この神の思いに気付く事はできません。神に見捨てられる者の絶望の叫びをあげて死なれたイエスの姿の中に、私の絶望を引き受け、私に代って死んで行かれたイエスの心に触れることによって初めて、私たちにも「本当に、この人は神の子だった」という信仰が生まれるのです。
『キリストは神の身分でありながら、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで謙り、御父のみこころに従順でした。』(フィリピ2・6以下参照)