信仰を生きるとは、神に信頼して生きることです。しかし、弟子たちは恐れに捕えられながら閉じこもっていました。人間の力の及ばない現実を人間の力によって乗り越えようとすれば、私たちはこのような恐れに捕えられるでしょう。その時私たちは、自分の中に閉じこもります。誰も入って来れないように心の扉に鍵をかけ、自分もそこから出て行こうとはしないでしょう。それが弟子たちの姿でした。

 「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちのまん中に、復活のイエスが来られたのです。そこに、弟子たちが体験した復活の主との出会いの土台があります。

二千年前に死んだイエスが、今も生きているとただ信じるだけでは復活の信仰になりません。復活したイエスが、自分の力を超える現実に心閉ざして閉じこもっている私たちの心の奥に入って来て、「あなたに平和があるように」と語りかけて下さる、そのイエスと出会うことこそが、弟子たちの復活体験だったのです。その弟子たちにイエスは、「あなたがたに平和があるように」と語りかけています。イエスがもたらす平和は、単に争いがないというのではなくて、神の祝福がそこに満ちています。復活したイエスは、私たちを神の祝福で満たそうとしておられるのです。弟子たちはその祝福を受けるのに相応しい者ではありませんでした。彼らは、イエスが捕えられた時、イエスひとりを置き去りにし、逃げ去った弟子たちでした。一番弟子であるペトロは三度も、イエスを「知らない」と断言しました。最後までイエスに従い通すことができた弟子は一人もいませんでした。たとえ、イエスの方から会いに来て下さったとしても、弟子たちはこのイエスに顔を会わせる勇気など持ってはいなかったのです。

そのような弟子たちに、イエスは現われ声をかけて下さいました。彼らは、女性たちからイエスの復活の知らせを受けていても、恐れに捕えられながら部屋に閉じこもっていました。不信仰と恐れの中にある弟子たちは、神の祝福を受けるに相応しいものは何一つ持っていなかったのです。これが、3年間直接イエスから薫陶を受けた弟子たちの現実です。その彼らにイエスは「あなたがたに平和があるように」と語りかけておられます。そのイエスの手と脇腹には、十字架につけられた時の傷がありました。それをお見せになったのは、十字架につけられたイエスと、目の前におられるイエスが同一人物である事を示すためです。同時に、もっと大切なことは、その傷は弟子たちがイエスを見捨てた罪の結果です。それを見せられることによって弟子たちは、自分たちの弱さと不信仰の現実をも自覚せざるを得ません。その傷を示しつつイエスは、「恐れることはない。あなたがたに平和があるように…」と語っておられるのです。イエスは、彼らの弱さ、不信仰、罪を乗り越えて、彼らに神の祝福を与えて下さっているのです。

神からの赦しと祝福と、そして新しい命をもたらすために復活したイエスは今、弟子たちの真ん中に立っておられます。彼らの罪や弱さをなかったことにしているのではありません。それをしっかり見なさいと示しつつ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけておられるのです。神から与えられるこの祝福と新しい命を喜びのうちに受け止めなさい…というのが復活のメッセージです。そのためにこそ、イエスは復活されたからです。

 このように、復活したイエスは不信仰の中で恐れに捕えられている私たちの真ん中に来て、「あなたに平和があるように」と語りかけて下さる方です。神の愛に相応しく応えきれない自分であっても、神は今も愛し続けておられること、そして新しく生かして下さることを教えられているのです。このイエスに信頼して生きることが、イエス・キリストを信じるという事です。自分の中に力があるからではありません。信仰は上から与えられる恵みです。私たちが努力して立派な人間になることによってではなく、どんなに頑張っても不完全な自分でありながら、それでもイエスご自身が来て下さることによって与えられる恵みです。復活のイエスは、弟子たちの背後から語りかけています。その語りかけを聞いてイエスの方へ振り向いた時、彼らはその恵みに気付かされています。それは、人間の考えを超える全く思いがけない信仰体験となります。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』」(21節)。復活して生きておられるイエスは、私たちに罪の赦しを与え、神の祝福で満たし、その平和の内に、私たちを派遣されるのです。どこに…、でしょうか。父なる神が私たちのもとに独り子イエスを遣わして、私たちを救って下さったように、私たちも人々のもとへと遣わされ、救いの喜びを人々に伝える者とされるのです。弟子たちも私たちも、イエスによって平和、祝福を与えられることによって、初めて固く戸を閉ざした心の扉を開き、外へ出て行くことができるのです。心の扉を閉ざしてしまうのは、不安や恐れがあるからです。その不安をそのまま捧げましょう。

そこで私たちが、勇気を振り絞って何かを頑張ることではありません。他の人から「戸を開けて出ておいで」と言われて、出て行けるものではないのです。固く閉ざされた心の真ん中に、復活されたイエスが来て下さる、そして「あなたに平和があるように」と語りかけて下さることによって、初めて可能となる神の恵みなのです。そのイエスとの出会いによって、神が私たちの罪を赦し、新しく生かして下さっている神のみ業を受け止めることができます。その時、私たちは安心して心の扉を開く者に変えられるでしょう。

 「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(22節)。イエスが弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を与えて下さったことによって、彼らは新しく生き始める者とされました。

創世記には、土の塵で形づくられた人間に、神が命の息を吹き入れて下さり、人は生きる者となったと書かれています。(創世記2・7)それと同じことがここでも起っているのです。復活なさったイエスが息を吹きかけ、聖霊を与えて下さることは何よりも大切な恵みです。これによって弟子たちは新しく生き始めました。イエスが与えて下さる聖霊を受けることなしに、人間の努力だけで福音の新しさを生きることは出来ないからです。

 それまで閉じ籠っていた弟子たちは、イエスから聖霊の息吹を受けて、イエスの十字架と復活による救いを宣べ伝える者に変えられました。たとえ殺されても彼らはイエスとの出会いの体験を語り続けました。そこから教会が生まれたのです。ここで語られているのは、聖霊降臨日の出来事と同じです。ヨハネ福音書は、主の復活の日の夕方に、イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃり、彼らを派遣なさったと語っています。ヨハネは、復活して生きておられるイエスとの出会いにおいて聖霊が与えられ、新しく生かされる、ということを語っているのです。

 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。

イエスがここで示そうとしておられるのは、聖霊の働きです。手とわき腹の傷を示しつつ、「あなたがたに平和があるように」と告げて下さったイエスによって、私たちに与えられる救いを語っているのです。それは、イエスの十字架と復活によって生まれ出る恵みであり、そこから流れ出る聖霊の恵みによって、神の祝福の中に新しく生き始める恵みです。今まで私たちが持っていた痛み、悲しみ、傷さえも、イエスの十字架によって意味あるもの、価値あるものに変えられることになるのです。

福音が告げられる時、そこにイエスの救いと恵みにあずかる人々が現れます。それは、人間の説得力ある仕方で上手に語られる話しによってではなく、聖霊が働くことによってもたらされる恵みです。

私たちの証しが、どんなに拙いものであろうとも、そこに聖霊が働きます。今日の福音で、特に思い出すよう促されている「神のいつくしみ」に出会った人々の共同体、それが世にある教会の姿です。弱さや欠点ある私たちの存在さえも、復活された主の光に照らされるなら、神のいつくしみを指し示すものに変えられるのです。あの弟子たちの姿は、まさにそのことを証ししています。