ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブは、イエスに連れられて山に登りました。そこには栄光に輝くイエスがおられました。その衣は真っ白に輝いています。そこには栄光に包まれたモーセとエリアがイエスと共にいます。旧約の律法の代表者(モーゼ)と預言者の代表(エリア)が、イエスと語り合っているのです。
ペトロは思わず叫んでいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのため…」。
「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった。」と聖書は説明します。ペトロは、少しでも長くその場に留まっていたかったのでしょう。
しかし、ペトロの願いはイエスによって却下されました。そして雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声がありました。もはやそこにモーセとエリヤはいません。ただイエスだけがおられました。
イエスは、祈るために山に登られました。そして、祈っておられるうちに姿が変わりました。ルカは、このように繰り返し ”祈るキリストの姿” を伝えています。
父なる神と共に過ごす時間…。イエスにとってそれはどのような意味を持っていたのでしょうか。それは日常の苦しみから逃れるための時間ではありません。山の上でイエスがモーセとエリヤが何を語り合っていたかを見てもわかります。そこで語られていたことは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」だったのです。(31節)
イエスは、山の上の祈りにおいても、麓にいる人々の現実を忘れることはありません。御自分がどこに向かっているかをイエスは自覚しておられたのです。イエスは今、エルサレムの十字架へと向かっておられます。そして、十字架へと向かう受難の道について語り合っておられるのです。
イエスにとって祈りは、十字架から外れたところにあるのではなく、まさにその途上にあるものです。そのことを弟子たちにも体験させたかったに違いありません。イエスが十字架につけられる直前にも同じ事がありました。その時、主は弟子たちとオリーブ山に行き祈っておられました。そこで苦しみもだえながらイエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。主はここでも祈っておられます。しかし、杯を取り除くためではありません。それは、御父のみこころが行われるため、父から差し出された杯を飲み干すためでした。
このように、イエスが山に登るのは、苦しむ人々と共に歩むためです。このイエスに御父は言われます。「これはわたしの子、選ばれた者」と。イエスは山の上に留まられる御方ではありません。エルサレムへと向かわなければならない使命があるのです。同じように、主は弟子たちにも山の上に留まり仮小屋を作ることを許されませんでした。
このイエスを指し示しながら父なる神が言われたことは印象的です。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。それは「彼に聞き従え」という意味です。弟子たちも、私たちも、イエスの言葉に聞き従うことが求められているのです。イエスと共にエルザレムの十字架へと向かうこと、それがイエスに従う者の本当の姿だからです。ですから、イエスは言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。
山の上での「イエスの御変容」は、単なる神秘体験の話しではありません。今の教会の話です。私たちの信仰の話しです。イエスは祈るために山に登られました。しかし、一人で登られたのではなく、三人の弟子たちを連れて行かれました。そこには、イエスによって祈りの世界へと導かれる私たちの姿があります。祈るために、教会に集められる私たちの姿です。日常生活を離れて私たちは教会に集まります。しかし、そこに留まることが目的ではなく、この世の現実に派遣されて行くためです。そのために集められているのです。外の世界には日常の生活があります。そこで私たちは、イエスの言葉を聞きます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という主の言葉を聞くのです。
この世の現実の中で、主に従って歩もうとするならば、私たちは自分の罪深さとも向き合わなければなりません。祈りながら、神の子の姿からはほど遠い自分の姿を見ることになります。ペトロも、祈りながら自らの現実に号泣しました。(ルカ22・61~62)私たちもペトロと同じように、主のまなざしに出会い 変えられなければなりません。私たちのこの現実を主は既に知っておられます。その上で信頼して私たちと関わり続けておられるのです。主の御変容の出来事は、私たちを力付けるためのものです。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」。栄光に輝く主の姿がそこにあります。天の御父は、キリストの復活において将来現される神の子の栄光の姿をここで垣間見せてくださっています。それは、将来の私たちの姿でもあるからです。主と同じ姿に変えられること。それこそ、私たちが最終的に目指すべき姿なのです。
「わたしたちは皆、… 栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(Ⅱコリ3・18)。
「主と同じ姿に変えられる」。このような希望を与えられている者として、私たちは今日もイエスの後に従い ついていくのです。