「聖霊に満たされたイエスが、霊によって荒れ野の中を引き回された」と書かれています。そこあるのは、悪魔の誘惑にさらされるイエスの姿です。いよいよ宣教を開始されようとするイエスが、聖霊によって悪魔の誘惑に引き回されるとはどういうことでしょうか。
荒れ野におけるイエスの体験も聖霊に導かれてのことであったということです。同時にそれは誘惑を受ける四十日でもありました。荒野での誘惑…、聖霊に満たされたイエスの働きを挫折させようとする悪の働き…、それさえも聖霊の導きの中での出来事であったことに驚かされます。そこには地上の人生を生きる私たちにとって、大変重要なことが語られているのです。
悪魔は三つのことを語りかけています。しかし これらの誘惑は、人間には元々できないことですから 私たちには誘惑になりません。これが誘惑となるのはイエスが「神の子」だからです。悪魔は、イエスが神から使わされた救い主と知った上で、その活動を挫折させようとしているのです。
イエスが洗礼を受けたことを語る箇所に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御父の声が語られていました。(3・22参照)多くの人々と共に悔い改めの印である洗礼を受けたイエスが、神によって「あなたは、わたしの愛する子」と宣言されたのです。福音書は、マリアから生まれたイエスが神の子であり、同時に人間でもある事実に先ず目を向けさせます。そのために、人間イエスが救い主としての働きを始めるに先立って、先ず荒れ野において悪魔からの誘惑を受けたことを語っているのです。
第一の誘惑。… 「お前が神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」というものでした。神の子であるイエスが、石をパンに変える力を持っているのは驚くことではありません。悪魔が試しているのは、神の子としての力をイエスがどのように用いるかを試しているのです。そこで語られていることは、イエスが、神の子としての力を自分の飢えを満たすために用いるかどうか、ということです。イエスは、「人はパンだけで生きるものではない」という申命記8・3のみ言葉によってこれを退けました。それは、「神の子としての力を 自分のために用いるつもりはない。それは人々の救いのために…」ということです。イエスの神の子としての歩みは、このようにして開始されていったのです。その行き着く先は十字架の死でした。
第二の誘惑。… 悪魔は、一瞬のうちに世界のすべての国々をイエスに見せます。「もし お前がわたしを拝むなら、権力と繁栄の全てを与えよう」と言っています。悪魔に魂を売り、悪魔を拝むなら…この世の権力と繁栄が与えられるというのです。この世の権力や富にとりつかれたなら、人間は相手を殺す過ちさえも犯してしまうものです。イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記6・13の言葉によってこれを退けました。まず、神のみこころを思い その神に仕えることによって、私たちを奴隷とする悪の力から解放されるということです。神の子であるイエスは、本来、この世界の全てを支配する力を持っておられる方です。悪魔は、自分を拝むことによってそれを実現するようにとイエスに要求しています。この世の権力や繁栄は悪魔の手に握られているということは、私たちも感じていることです。しかし、悪魔自身が語っているように、それは地上において、限られた間、任されているだけです。任せておられるのは父なる神です。それらを本当に所有し支配しておられるのは悪魔ではなく神なのです。最終的には御子キリストに与えられるものです。悪魔がさりげなく漏らしている言葉を注意深く聞き取りましょう。この世界が…、その権力や繁栄が…、悪魔の支配下にあるように見えるその時…、この世において、まさに悪魔的な力が猛威を振るう時があります。しかし、そこで本当に私たちを導いておられるのは誰でしょうか。主なる神であることを忘れてはいけません。イエスは、父なる神こそがこの世界を本当に支配しておられることを宣言し、神の子としての歩みを最後まで全うされました。それによって私たちの救いも実現されたのです。
第三の誘惑… お前が神の子なら、神殿の屋根の端から飛び降りてみろというものですが、これも「あなたの神である主を試してはならない」という申命記6・16の言葉によって退けました。イエスがここで拒んでいるのは「神を試す」生き方です。神を試す、それは、本当に神が存在し導いているのか、神に信頼して本当に大丈夫なのか、という人間の不安を人間的な思いによって安心させようとする誘惑です。そして自分で確信が持てた時、初めて歩み出そうとする生き方です。しかし、信仰において大切なことは何でしょうか。神に信頼することです。先ず信じて委ねて、そこから新しい一歩を踏み出す力を頂くのです。悲しいことに、私たちにはそれが非常に難しいことです。イエスが来て下さったのは、その私たちを助けるためでした。神の子であるイエスが人となってこの世を歩み、悪の誘惑を受け、悪の働きに打ち勝って下さった…。それはイエスが、私たちの歩むべき歩みを先に歩んで下さったということを示しています。このイエスを信じ、このイエスに結び合わされて、私たちは信仰を生きるのです。イエスが人としてこの世に生まれて下さったのは、イエスを信じる私たちが神の愛に信頼して生きるようになるためでした。神の子としての力を自分のためではなく、私たちの救いのために、最後まで歩み通して下さったイエス・キリスト。このイエスに自分の人生を委ねて歩むのが私たちの信仰です。
イエスと同じように、地上での私たちの歩みも悪の誘惑にさらされています。悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」と書かれていました。その時とは、イエスの十字架の時です。そこでイエスが、十字架の死に至るまでの歩みを貫いて下さった。この事実によって、この世の現実がどんなに苦しいものであろうと私たちは、新しく生きる力が与えられます。洗礼を受ける準備をしている世界中の方々と共に祈り、支え合う恵みを願いましょう。