聖書は、人となった神イエスを伝えています。イエスが、「天から降った生けるパン」であることは、イエスが神であることを前提として語られています。私たちが、このことばを理解し受け入れるためには、天からの助けが必要です。だから、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と語られているのです。イエスを神と信じる信仰は、証拠を示されて、納得して信じるようになるものではありません。父なる神によって導かれて初めて与えられる恵みです。神は、それをどのようにして私たちに与えて下さるのでしょうか。
「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」…。そうです。父が引き寄せて下さったから、私たちはここにいるのです。そして、イエスが神であることを信じる恵みも頂いているのです。
しかし、ユダヤ人たちはそこで躓きました。自分の考えや人間の常識によってイエスのことを判断しようとしていたからです。人間の常識からすれば、ヨセフとマリアの息子と思われていたイエスが、天から降って来た独り子なる神であるはずはないと思ったのです。しかし、福音書は、「独り子をお与えになるほどに世を愛された神のみ心」を強調しています。この神のみこころに触れようとする者に、神はイエスに与え、イエスのもとに引き寄せて下さいます。 私たちが信じることができるのはこのイエスという存在があるから、そして聖霊の導きがあるからです。イエスに惹かれ、イエスに引き寄せられる恵みが先にあって信じることができるのです。このようにして、イエスを信じる者になりたいという望みが現実のものとなっていきます。
「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(49節)。
かつて、イスラエルの民は荒れ野を彷徨ったとき、神からのパンを与えられて生き延びることができました。しかし、それは食べてもいずれはまた空腹になる食べ物です。地上のパンとはそういうものです。イエスが与えようとしておられるパンはそのようなものではありません。イエスは私たちに、永遠の命のパンを約束しておられます。イエスを信じるとは、天からのパンであるイエスご自身を頂くことです。イエスは、神でありながら地上に生まれ、人間としてこの世を生き、私たちの罪を背負って十字架の上に死に、復活して永遠の命を生きておられる方です。
私たちの貧しい信仰も存在も、このイエスとの繫がりと関わりがあって初めて意味あるもの価値あるものとされます。限界ある私たちの存在が意味あるものに変えられるのです。二千年前の、イエスの地上での生活は、私たちに希望を与えるものです。
「信じる者は永遠の命を得ている」……。イエスのこの約束を信じる者は、既に永遠の命を得ている、ということです。この世の命は死によって終わります。しかし、イエスが約束して下さった永遠の命は既に始まっています。神が与えて下さる新しい命、永遠の命はすでに始まっていますが、未だ完成はしていません。この世にはなお人間の弱さがあり、罪と死の支配があります。私たちは、苦しみ多い地上の人生を、イエスによる癒やしと赦しの恵みを受けながら、神が与えて下さる永遠の命を待ち望みつつ、そこに希望をおいて歩むのです。不完全な私たちでありながら、イエスによる救いのみ業に協力する使命まで与えられているのです。イエスによって「すでに」成し遂げられている救いと、「未だに」完成されていない救いの完成、その両方を見つめつつ生きるのです。
私たちは、聖体の秘跡に与り、十字架の死によってなし遂げられた罪の赦しと、復活の恵みを体全体で味わうよう招かれています。聖体の秘跡は、苦しみ悲しみに満ちているこの世の人生において、私たちを生かす命のパンです。命のパンであるイエスと一つとされることによって私たちは、約束されている永遠の命を信じて希望をもって歩むことができるのです。全ての人が招かれているこの喜びの福音を伝える者とならせて頂けますように……。