イエスの後を追って探し回る群集たちの姿が語られています。イエスがいなくなっていることを知った彼らは、湖の向こう岸でイエスを見つけ「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」と言っています。「あなたは一緒に舟に乗らなかったはずなのに、いつここに来られたのですか」と聞いているのです。これは象徴的な問いです。ヨハネはここで、救いを求めて追いかけて来る人々を通して、救いを求めている人々のもとへ、イエスはどのようにして来て下さるのか、イエスによる救いとはどのようなものであるのかを示そうとしているのです。それは、イエスとは誰なのかというイエスの本質にも関わる問いです。私たちも同じ問いを抱きながらここにいます。26節以下は、その問いへのイエスの答えです。

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。

群衆たちは、イエスによるパンと魚の奇跡を見てイエスの後を追ってきた人々です。イエスのなさった奇跡をヨハネ福音書は「しるし」と呼びます。群衆はイエスの後を追って来ていますが本当の信仰ではありません。イエスこそ救い主であられるという信仰を持つようになることによってこそ、イエスの奇跡も本当の意味で受け止められたことになるのです。けれどもこの群衆は、パンを食べて満腹した体験と驚きのゆえに、イエスのもとに来ています。その満足感をこれからも味わい続けたいと願っているのです。そして、このイエスを自分たちの王にしたいというと思うところまで発展していきます。このイエスが王になってくれるなら、いつも満腹させてもらえる、生活の不安も取り除かれ、安心して生きられるようになる、このような救い主を彼らは求めていたのです。彼らにとってイエスの奇跡は、信仰につながるものではありません。それは、彼らが「しるし」の本当の意味ではなく、ただパンを食べて満腹したことだけを見つめていた、ということです。イエスは、さらに語っています。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(27節)。

あなたがたが求めているのは「朽ちる食べ物」だ。しかし、神があなたがたに与えようとしているのは、朽ちない食べ物、いつまでもなくならないで永遠の命に至る食べ物である。それを求めなさい、と語っているのです。ヨハネ福音書は、イエスのしるしを通して、父なる神がイエスによって与えようとしておられる救いの本質を語っています。私たちを本当に生かす命のパンとは何であるかを語ろうとしているのです。

イエスの言葉を聞いた人々は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)と尋ねています。立派なこと、正しいことをすることによって救いが得られる、という思いが人間にはあります。これに対するイエスの答えは、人間の常識を覆すものでした。何か良いこと、立派なこと、正しいことをすることが神の業を行うことではなく、神がお遣わしになった者を信じることこそが、神の業である…と語られたのです。神は御子を遣わして下さるほどに私たちを愛しておられます。その神の心を受け入れ、その愛のもとに生きることこそが、神の業を行うことなのです。良いこと、立派なこと、正しいことをすることによってではなくて、イエスを通して、神の愛を信じる恵みによって、永遠の命に至る道が開かれるのです。人々はイエスに尋ねています。

「それでは、わたしたちがあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」。

あなたを信じるに足る証拠を見せてほしい、という願いです。そこで彼らが求めているしるしも、パンを食べて満腹することです。パンを与えて満腹さえさせてくれれば、あなたを信じます、と言っているのです。奴隷とされていたイスラエルの民は、昔モーセに導かれてエジプトを脱出した際、荒れ野においてパンが無くなってしまうとモーセに不平不満を言いました。そのとき神はモーセに、天からのパンである「マンナ」を与えて下さいました。(出エジプト記16章参照)その記憶が、イスラエルの人々の間に受け継がれているのです。イエスの奇跡を見た彼らは、このことを思い出して、イエスのうちにモーセの再来を見たのです。モーセのように天からのパンを与え、満腹させてくれるイエスこそ、世に来られる預言者、救い主だ、と人々は思ったのです。そしてこの天からのパンであるマンナは、イスラエルの民が約束の地に入るまで毎日与えられ、彼らはそれを食べて荒れ野を旅することができました。同じように、自分たちの日毎のパンを与え続けてほしい、そうすれば、あなたが神からの救い主であることを信じることができる、と彼らは言っているのです。彼らにとっての救いとは、パンを与え満腹させてくれる救い主、日々の生活を安定させ、安心して生きていけるようにしてくれる救い主です。

私たちも、そのような救いを求めていることが多いのではでしょうか。そのような救いを求めている人々に、イエスはこう宣言しておられます。

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」。

実はあのマンナも、イスラエルの民が荒れ野の旅路を歩み続けることができるように父なる神から与えられたものです。真の救いは、この世のパンによって満腹し、安心して生活できるようになることにあるのではなくて、父なる神が与えて下さる真のパンであるイエスを知ることにあります。このパンは、天から降って来て、世に命を与えるものです。このイエスこそ、父が与えて下さるまことのパン、いつまでもなくなることのない、永遠の命に至る食べ物です。イエスの奇跡は、私たちを満腹させ、生活を安定させるためではなくて、イエスこそ、御父から私たちに与えられた、永遠の命に至る食べ物であることのしるしなのです。このイエスに出会うことによって私たちは、永遠の命が何であるのかを知ります。このイエスによる救い以外のものは、たとえそれがこの世の人生において私たちを満腹させ、生活を安定させ、安心して生きることができるようにしてくれるものであっても、いつかはなくなってしまう「朽ちる食べ物」です。死を越えて私たちを生かす本当の希望はそこにはありません。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」というイエスの言葉は、頑張って良いことをする立派な人間になりなさいということではなく、イエスを信じる恵みは人間の力ではなく神によって与えられる恵みであることを語っています。その恵みをこそ願いなさいということです。「信仰が恵みである」とはそういうことです。