イエスは、シカルというサマリアの町に来られ、井戸のそばに座っておられました。そこへ一人の女性が水を汲みに来ます。この人にイエスは「水を飲ませてください」と願っています。「あなたはユダヤ人なにに、どうしてサマリアの女のわたしに水を飲ませてほしいと頼むのですか」と聞いているのです。
ユダヤ人とサマリア人の歴史的対立の中に身を置きながら彼女はイエスと話しています。イエスの語りかけはさらに続けられます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば…、あなたの方からわたしに頼み、わたしはあなたに生きた水を与えたことであろう」。女性は、尋ねます。「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」。
「ヤコブの井戸」と呼ばれたこの井戸は相当深いものでした。何の道具もなしに、「生ける水」を与えることなどできるのですか、という問いです。そしてここでも、サマリアの女性はこだわりを見せています。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。
イエスは、「生ける水」と、ヤコブの井戸からくみ出される水とは全く違うものであることを示しているのですが、女性にはまだ通じていません。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。
イエスが与える水は「決して渇かない」…。わたしが与える水そのものが、泉となって「永遠の命に至る水」をあなたの中に湧き出させるということです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と女性は言っています。この女性は、イエスの言うその水さえ手に入れば、人目を避けて、毎日人のいない時間帯を狙って、水をくみにここに来る必要もなくなる…と思ったことでしょう。けれども、イエスはそれをお許しになりませんでした。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)。女性の心には、刺し貫かれたような痛みが走ったことでしょう。一番痛いところ、辛いところを突かれたからです。(注。この部分、今日の聖書と典礼では省かれていますが、ヨハネ福音書を確認しながらお読み下さい。)
女性は「わたしには夫はいません」という当り障りのない返事ですませ、その場逃れしようとしますが、イエスはその背景にあることもすべてご存知でした。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(18節)。
女性が「主よ」と呼びかけているのは救い主の意味ではなく、これは一人の教師としての呼びかけです。それが徐々に、「あなたは預言者だとお見受けします」(20節)というように変わっていきます。そして、礼拝の場所についての質問が始まります。エルサレムのみが神を礼拝する唯一の場所だと主張するユダヤ人に対して、サマリア人はゲリジム山に聖所を築いて、そこが神を礼拝する場所であると主張していました。その時、主はこの女性に、「婦人よ、わたしを信じなさい」とだけおっしゃっています。どこで礼拝するかが問題なのではなく、礼拝するべき方が今目の前におられる。そのことこそ、私たちが見つめるべき大切な事なのだと。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24節)。霊なる神は人間の心の目を開き、自分の真実の姿を見させる神です。この方の光に照らされる時、わたしたちの罪にまみれた姿が白日の下にさらされます。この女性は、これまで五人の夫と結婚と離婚を繰り返していました。しかも今も、別の人と同棲をしているのです。
この女性も、信頼しあう生活を、どんなにか夢見ていたことでしょう。どんなにか、幸せな家庭を築こうと望んできたことでしょう。けれども、人格的な関係を結ぶことのできない自分の弱さに打ちのめされ、今の状態を甘んじ受け止めるしかないのが本当の現実でした。そこにイエスは、水を求める一人の渇ける者として近づき、彼女に語りかけておられるのです。
イエスは、「水」という人間にとっての日常生活に欠かせない切実な問題から入って、やがて深く問いかけています。「あなたが水を汲みに来ているこのヤコブの井戸は本物か。あなたの今の生活は本物か…」と。
女性にとってイエスは、旅人、教師、預言者へと変化していきました。けれども、女性は自分の力でイエスがどなたであるかを知ることはできませんでした。しかし、最後にイエスは「あなたと話をしているこのわたしがメシアである」と明らかにされます。(26節)約束された救い主は、今目の前におられる方であることを知った女性の喜びはどれ程大きかったことでしょう。イエスが、一人の旅人として女性の前に現われたように、私たちも人生のどこかで同じ体験をし、イエスに出会っています。キリストにおいて神と出会い、聖霊に導かれて、私たちは真実の神を礼拝することができる恵みを頂いているのです。私たち自身の中にある「過去へのこだわり」からも解放してくださいます。そこから、「永遠の命」に至る水が湧き出るのです。そのことが分るまで、サマリアの女性も時間が必要でした。今日、私たちもイエスからの語りかけを受けています。そして、「あなたと話しているこのわたしがそれである」という主の言葉の前に私たちは立たされているのです。
その「恵みの時」を知った者は、あの女性と同じように過去のしがらみからも自由になり、そのしるしであった水がめをそこにおいて、今まで避けていた人々の中に入っていけるように変えられていきます。それは、霊と真理による礼拝の実りであり結果です。私たちも今、ここで、まことの神と出会い、その恵みの時を知らされています。主が救いの計画を前進させるよう、そのためにどうぞ貧しい私を用いてくださいと祈りたいものです。