最後の晩餐において弟子たちに語られたイエスのことばです。弟子たちは、間もなくイエスを見ることができなくなります。その弟子たちのために語っておられます。イエスが父なる神のもとに行くことによって、弟子たちは今までのようにイエスを見ることはできなくなること、その中で信仰を生きなければならなくなることをイエスは意識しながら繰り返し語ります。それはまた、私たちへの言葉でもあります。私たちも、イエスをこの目で見ることはできません。目に見えないイエスを、見えない中で信じる信仰が求められているのです。そこに、信仰を生きることの困難さと同時にイエスから頂く信仰の神秘があります。
「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」17・20においてイエスは、弟子たちだけでなく彼らを通して誕生する将来の教会のためにも祈ったことが語られています。イエスを信じて生きる私たちのための祈りです。イエスというぶどうの木に繫がりながら、イエスと共に神の望みを生きる…、それが私たちの信仰です。そこに教会本来の姿もあります。「わたしに繫がっていなさい。わたしもあなたがたに繫がっている。ぶどうの枝が、木に繫がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしに繫がっていなければ、実を結ぶことができない。」
イエスに繫がって初めて、私たちは実を結ぶことができるのです。何もできない存在でありながら、イエスに繫がっていることによって実を結ぶ者とされる、それが私たちに与えられた約束です。限界ある私たちがイエスに繫がることによって、そこに教会が誕生するということです。教会は、そのようにして誕生した神のみ業です。人間の業で誕生したものではありません。私たちは、このイエスに結ばれているからこそ、様々な違いと不完全さの中にありながらも、互いの交わりと信頼関係を持って歩むことができるのです。
一人ひとりが、バラバラに繫がっているのではありません。私たちの交わりの中心にはいつもイエスがおられます。そして私たちを一つにして下さっているのです。それは、イエスによってもたらされる豊かな実りです。
イエスはここで、「あなたがたはすでに、ぶどうの木の枝となっている」という事実を語っておられるのです。これから努力して立派な人になれば将来、立派なぶどうの木になれる、と言っているのではありません。あなたがたは既に、私に繋がっている枝であり、それによって実を結ぶことができる者となっている、というイエスの宣言です。そのぶどうの木の手入れをしておられるのは父なる神です。
「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。
父なる神は、実を結ばない枝を取り除かれます。父なる神は、実を結ばない枝を取り除いて焼き滅ぼされます。私たちはこの言葉を聞いて、自分はどうなのかと怖くなるかも知れません。ここには、この福音書が書かれた紀元1世紀末の教会の状況が反映されています。地中海沿岸の多くの所に広まった教会に対する迫害も同時に起こっていた時代です。
当時のキリスト者たちは、まさにイエスの姿が見えない中で、この迫害に耐えて生きなければならなかったのです。そのような状況の中で、教会から離れてしまう人たちも現れました。そういう現実を見つめながらヨハネは、「イエスに繫がっていなさい。イエスもあなたがたに繫がっているから」という勧めを与えているのです。
ぶどうの木の枝が「豊かに実を結ぶように」手入れをなさるのは御父です。そもそも、イエスというぶどうの木を植えて、私たちをその枝として下さったのはこの方です。私たちは、自分の意志でイエスに繫がったのではありません。洗礼を受ける前から私たちを選び、導いて下さったこの方がおられるからこそ、私たちは信じることができるのです。イエスの話した言葉によって、私たちはすでに清くされ、実を結ぶ者とされています。そこに、父なる神のみこころがあります。そして、いよいよ豊かに実を結ぶように御父が手入れをしておられると…。
イエスのことばによって清くされた私たちを御父は、ますます豊かに実を結ぶように剪定しておられるのです。枝を取り除くのは、より豊かな実を実らせるためになされることです。そこで私たちに求められていることは、イエスにつながっていることです。自分の力や努力によって実を結ばせるのではありません。イエスにつながっているところから生まれる恵みです。イエスにつながってさえいれば、私たちはどんなに貧しくても実を結ばせることができます。だから、その恵みから離れずに、わたしに留まり続けなさいというイエスの心からの願いです。