ある人に二人の息子がいました。弟の方が父に自分の受け取るはずの財産分与を願っています。しかし、ユダヤ社会において父が生きている間、通常そのような事は行われません。弟はその財産を全部金に換えて遠い国へと旅立ちます。弟にとって父親は、既に死んだも同然の存在だったのです。今まで物理的には父のすぐ側にいたでしょう。しかし、心は遠く離れていました。その意味では、旅立つ以前から心は遠く離れていたと言えるでしょう。ここでイエスは、神と人間の関係を話しています。私たちにとって神とはどのような存在なのでしょうか。近くにいると思って生きていても、神の心が分っていなければ その神はすでに死んだも同然です。

ユダヤ人の社会において、父親は大きな権威をもっていましたからモーセの律法の規定によってこの弟を家に留め置くこともでたでしょう。しかし、そうはしなかった…、その意味を考えてみましょう。人の心は、強制力によっては変えられないものです。

父は望み通り、財産を分けています。弟息子のように、心が遠く離れていても、それでも願い求めたことにとりあえず応えています。イエスがこのたとえを語られたことの意味は深いものです。彼は父のもとにいながら、心は遠く離れていた…。そこに着目しなければなりません。息子の願いが実現すればする程、彼は父の思いから遠く離れ、さらに不幸になっていきます。そして自分の不幸な現実に否応なしに直面する事になります。父から与えられたものが手元にあるうちは その事に気付きません。それに気付いたのは、与えられていたものが全て失われた時でした。これもまた私たちの姿です。気付くのはそれまで当たり前であったものが失われ、当たり前でなくなった時です。

 私たちにとって、何かを得ることがいつも幸福に結び付くでしょうか? 逆に、何かを失うことが不幸に繋がるでしょうか? 自分は今ここで、何をしているのだろうか…と思い悩みながら、人は父のもとにいない自分、大切なものを失った自分を発見するのです。その時、私たちはどうすれば良いのでしょうか? 帰れば良いのです。父のもとに帰れば良いのです。

 弟は方向を変え、父に向かって歩き始めます。「お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう二度と息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言っています。自分の現実に気付いた人間が、方向を変え、父に向かって歩み始める姿…。それが、悔い改めの姿なのです。しかし、人間の悔い改めによって全てが完結するのではありません。

イエスは、この時の父の姿に私たちの目を向けさせます。父は、遠く離れていた息子を見つけて走り寄ります。何と印象的な姿でしょう。父と子の間にあった距離を埋めたのは父でした。父こそが息子を見つけたのです。父の方から走り寄り、息子を抱きしめて言います。「急いでいちばん良い服を持って来てこの子に着せてやりなさい。手には指輪をはめてやり、足に履き物を履かせてやりなさい」。もはや子と呼ばれる資格のない息子のために…、この父の心に出会った時、弟は本当の意味で息子となりました。

 イエスが伝えたかったことは、この父の心です。惨めな状態の私たちを探し続け、見出し、駆け寄り、抱きしめる神の姿です。父なる神が御子キリストを世に遣わされた、とはまさにそういうことです。十字架によって神と私たちの距離が縮まったのです。

 この時、兄息子は畑で働いていました。夕方、家に帰り祝宴の音を聞いた兄は怒り狂います。「お父さん、わたしはこのとおり何年もあなたに仕えてきました。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。しかし、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒に あなたの身上を食いつぶして帰って来ると肥えた子牛を屠って祝宴を開くとは…」。残念ながら、兄息子は父の心が分っていなかったのです。

この兄息子に父は言っています。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいるではないか。わたしのものは全部お前のものだ」。帰ってきた弟を共に喜び祝おうではないか という父の心です。確かに、兄はいつも父と一緒にいました。しかし、父と喜びを共にすることはできませんでした。弟に対しても兄は「わたしの弟」とは呼べません。兄は、父の喜びからも 悔い改める弟からも遠いところに身を置いています。物理的には父の一番近くにいたはずの兄ですが、心は遠く離れていたのです。ここでも、その距離を埋めるために動いたのは父です。父親の方から、入ろうとしない兄に近付いています。そして喜びを共にするように招いています。

人間にとって、「悔い改め」とは何でしょうか。罪を犯さない立派な人間になることでしょうか。一生懸命、掟に従って生きていれば正しい人間なのでしょうか。そうではありません。神が愛している者を受け入れ、神の喜びを共にすることなのです。私たちがまず注目しなくてはならないのは兄息子の方です。父は、兄息子も共にこの喜びに加わって欲しいと願っています。共に喜んで欲しいのです。この父の願いが分かれば、そこから見えてくるもの、聞こえてくるものがあるのです。何があっても、神にとって私たちは大切な存在です。父にとっては、兄も弟もどちらも大切な存在です。

 教会は、この神の喜びを共にする人々の集いです。私たちはそこで、父の喜びを分かち合うのです。一人ひとりの存在を父なる神が喜んでおられる…。父にとって私たちの存在は、祝宴を開いて喜ばずにはいられないほど、大きな出来事なのです。

教皇様は、神のお告げの祭日に 紛争の中にあるウクライナとロシアを汚れなき聖母のみこころに奉献されました。涙のうちにある人々が、聖母の取り次ぎによって護られますように、そして一日も早く 共に喜ぶ時が来ますように…。