弟子たちが、二人ずつ組にして宣教へと派遣されています。それは、互いに助け合い合うというだけでなくもっと深い意味もあります。イエスの弟子となり、福音を生きるに当たって私たちは、共に歩むということの難しさも学ぶ必要があるのです。それは、折り合いをつけ、妥協点を見出すことでもありません。私たちを派遣されるイエスのみ心を探り求めるために必要な試練でもあるのです。主のみ心を尋ね求めるために、共に派遣されている仲間の言葉にも耳を傾けなさい…、とイエスは語っておられるのです。
「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」。
自分が持っているものによって安心する思いをも捨てなさいと語っています。キリスト者の生活は、人間の能力や資質によって支えられるものではないからです。逆に、「能力がないからイエスの弟子になれない」ということもないのです。持っているものが何もなくても、身一つで、今直ぐに、イエスの弟子として生きることができるのです。
主から派遣された者として歩むための唯一の根拠は、イエスご自身による派遣です。イエスに招かれ、イエスから派遣されているならば、何も持っていなくても、イエスの望む使命を生きる事ができるという約束です。そうでないなら、私たちの働きは空しいものです。
自分の望みを生きるためではありません。むしろ、こんなことはしたくない、と感じる中で、主の望みがどこにあるかを探すのです。それを確認する中で、私たちは神の導きと思いを知らされていくのです。
「どこでも、ある家に入ったらその土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」(10節)。
ここで語られていることは、ある家に迎え入れられたら、その町を去る時までそこに留まりなさい、ということです。主からの招きがあって、主に派遣されて歩んでいるはずの私たちが、自分の工夫や知恵によって、自分の計画の実現を求めて生きようとすることが信仰なのではありません。主に信頼することを忘れてしまうならば、私たちはいつの間にか自分の思いが中心となってしまいます。
「あなたがたは何により頼んで生きているのか?」ということがここで問われています。これは、今の私たちにとって、大変重要な事です。「あなたは何により頼んで生きているのか?」これをイエスに問われつつ生きることが信仰なのです。
「イエスの望みと期待に応えて生きたい!」…、それこそ、弟子たちが選び取りたい生き方でしょう。それが、可能となるのは、イエスが復活して生きておられるからです。「イエスが復活して今も生きておられる…。」そうでなければ、私たちの信仰にどんな意味があるでしょう。イエスという存在を、昔の偉大な生き方をした人としてただ尊敬するだけでは足りないのです。イエス復活後、弟子たちが気付かされた最大の恵みは、「イエスは復活して、今も生きておられる。だから、私たちもイエスにおいて成し遂げられた救いを信じることができる。」ということでした。これが私たちの信仰です。私たちが生きているこの世の現実には、様々な苦しみや悲しみが満ちています。人間の罪は、その苦しみや悲しみを更に大きなものにしています。また、肉体をもって生きている私たちの歩みには病気や老い、最終的には死の力も襲ってきます。それらによって私たちは脅かされていると言っても良いでしょう。それが地上の私たちの現実です。イエスの復活がなかったら、どこに希望をおいて生きる事ができるでしょう。私たちの救いのために、神の御子イエスは来て下さったのです。福音を通して私たちは、地上の苦しみや悲しみを背負い、ご自分の死によって私たちに救いを与えようとする神に出会うのです。そして、避けることの出来ないこの世のありのままの現実を、それでも希望を持って意味あるものに変えて受け取る使命が与えられているのです。イエスの存在の意味を知っている私たちを通して神が望んでおられる事です。
復活なさったイエスは今も生きて、私たちと共におられます。私たちと出会い、語りかけて下さいます。そして、「あなたも、この神の救いの恵みを伝えて行く者でありなさい」と語っておられます。これは、私たちが自分の心の中で考えた思想や、本を読んで学んだ知識によってではなく、聖霊の導きによって実現する恵みです。神の約束です。
今も私たちに語りかけて下さっている主に信頼しながら、貧しい私たちの歩みも意味あるもの、価値あるものに変えられ、人々の胸に刻み込まれます。救いの恵みを信じて生きる生き方が起ります。苦しみや悲しみ、恐れに捕えられていた人々が、主の十字架と復活による神の救いの恵みによって慰められ、力づけられるということがそこに起ってくるのです。私たちの信仰は、人間の力によって生み出されるものではありません。復活して今も生きておられるイエスが、聖霊の働きによって今も導いておられるからこそ与えられる恵みです。そのために、及ばずながらも協力させて頂く恵みを頂いているのです。