「群衆が集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」と書かれています。ここに、イエスが私たちとどのように関わって下さるかが示されています。イエスは徹底的に私たちを受け入れ、関わっておられます。その行き着く先が十字架の死でした。イエスはまさにご自分の命を投げ出して、苦しみ悩みをかかえている人々を愛して下さったのです。そのイエスの歩みに弟子たちも巻き込まれていきました。イエスの徹底的な愛の働きに弟子たちも巻き込まれていきます。イエスに従っていく者たちも同じ体験をすることになるのです。
そこに、身内の人たちが、イエスを取り押さえに来ています。ナザレの人々は、「あの男は気が変になっている」という言葉まで語っています。大工の息子として普通に育ったイエスが、ガリラヤ中の町や村で、「神の国は近付いた、悔い改めて福音を信じなさい」と語りながら病気を癒したり、悪霊を追い出したり、奇跡を行っている訳ですから人々が驚いたとしても無理はないでしょう。ここに、興味深い状況が生じています。一方には、イエスのことを気が変になったと思っている人々がいます。そしてもう一方には、イエスを信じ従っていこうとしている人々がいるのです。彼らはイエスの愛の働きに巻き込まれ、イエスと共に志を一つにして歩もうとしている人々です。今彼らがいる場所は、ガリラヤ地方の町カファルナウムです。ガリラヤはユダヤ人たちにとっては辺境の地。それに対してエルサレムはユダヤ人の信仰と文化の中心地です。ガリラヤ地方にも律法学者たちはいましたが、エルサレムから来た律法学者は権威が違います。最高の権威を持った学者たちが来て、新しい教えを説いて問題となりつつあるイエスに判断を下しているのです。彼らが下した判断は、「あの男はベルゼブルに取りつかれていて、悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」ということでした。「ベルゼブル」とは「悪霊の頭」です。イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれており、その力で悪霊を追い出していると語っているのです。そこから分かることは、彼らも、イエスが悪霊を追い出しておられるという事実を認めざるを得なかった、ということでしょう。イエスには確かにそういう力があることを、エルサレムの最高の学者たちも認めているのです。しかしそこに働いているのは神の力ではなく、悪霊の頭の力だ、と語っているのです。イエスによって悪霊からの解放という救いの業が行われていることを一方で認めながら、そのイエスを信じ、従うことには拒否をsる生き方です。この律法学者たちを呼び寄せて、イエスは次のように語られました。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。
サタンの力に支配され、神に敵対する思いや行動に陥り、それによって他の人をも苦しめている私たち……、イエスはそのような人間を救おうとしておられます。そのために、神の御子が悪霊と戦い、人々をその支配から解放し、自由を与えようとしておられるのです。それは、イエスによって神の国、神の恵みの支配が到来していることのしるしです。イエスが来られたことによって、サタンの支配が打ち破られ、神の支配が始まろうとしています。そういう戦いがもう既に始まっているのです。罪の力に脅えながら生きるのでなく、神によって造られ、守られている本来の自分を取り戻し、喜びをもって神に仕える者となることこそが私たちの信仰です。
「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。」
面白いことに、イエスはここで自分を強盗にたとえて話しておられます。イエスが押し入ろうとしている家とは私たちのことです。その家は今、「強い者、悪霊の頭」によって占拠されています。イエスはまさにこの悪の力と戦って下さっているのです。その戦いは、人間に救いを与えるためです。そのイエスが、自分たちのために戦って下さっているのを見て、「あれは悪霊の頭が子分に命令している」などと捉えることはとんでもない間違いなのです。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう語られたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからです。イエスの業のうちに聖霊ではなく、悪の働きを見させようとするのが悪の力です。私たちが、知らず知らずのうちに犯してしまう罪のことではありません。むしろ、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦される」のです。そういう私たちのために、イエスは、悪霊の頭と戦って下さったのです。サタンの側も、全勢力を傾けてイエスに立ち向かうでしょう。この激しい戦いの中でイエスは、十字架にかかって死なれました。イエスの十字架の死において、サタンはこの戦いに勝利したかのように一時的には見えました。しかし父なる神は、罪と死の力を打ち破ってイエスを復活させ、新しい、永遠の命を生きる体をイエスに与え、私たちにもその新しい命を生きる道を開いて下さったのです。このイエスの十字架の死と復活によって私たちは、本来の自分を取り戻し、喜びをもって神に仕え生きることができるようになったのです。エルザレムから来た律法学者達は、「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言って取り押さえに来ました。しかし、弟子たちや、イエスに家を提供したシモンの家族たちは、イエスにおいて働いているのは聖霊の力であることを知っています。どうしてこのような違いが生じているのでしょうか。
本当の意味でイエスの身内、家族とはどちらの人々なのでしょうか。 悪霊の言葉を語り、自分自身をも傷つけてしまっている私たち。大切なことは、イエスを主人としてお迎えすることです。イエスは既に、十字架の死と復活とによってサタンとの戦いに勝利しています。このイエスによって私たちは、本来の自分を取り戻し、喜びをもって神に従う者となります。その時、私たちは本当の意味でイエスの家族となります。そこで共に囲む食卓、それがミサ聖祭です。このパンと杯にあずかることによって私たちは、神の家族として共に生きる絆も深められていくのです。