これまでイエスは、目に見える形で弟子たちと歩んできました。道に迷った時、弟子たちは目の前のイエスに直接聞くことが出来ました。しかし、これからは目に見える仕方では共におられません。ですから、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と語っておられるのです。そこでイエスが語られたことは、「わたしはあなたがたのもとを去って父なる神のもとに行く」ということでした。この後、十字架につけられ殺されることになりますが、しかしそれはイエスの敗北ではありません。イエスは復活します。父なる神のもとに行かれるのです。それによって、イエスと御父が成し遂げようとしておられる救いの計画が実現するのです。しかし、まだ弟子たちにはその事の意味が分りません。さらにイエスは言われます。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところにまた戻って来る」(18節)。

どのようにして、戻ってくるのでしょうか。それは、イエスの願いによって与えられる聖霊が私たちを導くことによってです。聖霊が遣わされることによって、イエスは私たちと共におられます。弟子たちは、イエスがいなくなると告げられ不安を抱いています。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。そのような弟子たちにイエスは、「わたしを愛しているあなた方を、わたしが見捨てることがあろうか。父の家に行ってあなたがたのために場所を用意したら必ず戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」とおっしゃっているのです。その時、重要な役割を果たすのが聖霊です。「別の弁護者、真理の霊があなたがたを助け導く」と約束しておられるのです。「別の弁護者」…。それは、「慰め主、助け主」とも言われ、私たちの側にいて助けてくれる存在です。最後の晩餐の席でイエスは、「あなたがたの心は今悲しみで満たされている。しかし、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。… この真理の霊が来て、あなたがたを導き真理をことごとく悟らせる。」と言われました。これからは、イエスに代って聖霊が弟子たちを、そして私たちをも導くと語っているのです。

その方は、いつまでも私たちと共にいる御父と御子の愛の霊です。イエスが地上で語り行われた出来事の意味を悟らせてくださる方です。世の人々は、この霊を見ようとも知ろうともしないどころか、その存在さえも知りません。しかし、「あなたがたはこの霊を知っている」とイエスは語っておられるのです。そのあなた方とは、私たち一人ひとりのことです。父のもとから遣わされる聖霊によって私たちは、今もイエスが共におられることを知るのです。「だから、心配することはない。」と語っているのです。

イエスが天に帰られることによって、救いの計画は次の段階へと移行します。これからは、聖霊が導く時代に入るという事です。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。この御言葉の意味は深いものです。あの臆病な弟子たちが、どうしてあそこまで変わることができたのか…、それは弟子たちの汚れた足を洗いながら語ったイエスの約束を思い出したからです。私たちが頑張って清くなれるのではありません。御父の前で私たちのために取り成し、涙を流しながら一人ひとりの足を洗い、私たちの痛みを知るイエスの存在があるから、そこに私たちの救いがあるのです。そこに気付いてなければ、何れ私たちの信仰は躓くことになるでしょう。イエスの語る愛は、決して押し付けがましいものではありません。聖霊の助けによって初めて分る恵みなのです。神のもとから「真理の霊」が遣わされた時初めて、私たちはイエスの愛の心と存在の意味を知ることになるのです。

別の弁護者とは、父なる神のもとから私たちのところに遣わされる聖霊です。この方が、イエスが地上で語られたみことば、イエスが地上でなされたみ業や真理をことごとく悟らせてくださいます。世の人々は、この霊を見ようともしない、知ろうともしない。しかし、「あなたがたはこの霊を知っている」と言われます。なぜなら、これからは、この霊が私たちの内にいるからです。聖霊によって私たちは、見えなくなったイエスを見、イエスを知ることになる…。「だから、恐れることはない。」と語ります。

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人はわたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」(21節)

イエス亡き後、弟子たちが立ち上がることが出来たのはイエスの約束があったからです。弟子たちの足を洗い、これからも弟子たちのそばにいて導くという約束を思い出し、そのイエスは今も生きておられるという事が分ったからです。聖霊の働きによってあなたがたは「見えなくなったわたしを見、わたしの愛を知るようになる。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と言う約束を弟子たちは、自らの体験として語っているのです。

聖霊が遣わされることによって私たちは、最終的には未だ完成されていない救いの恵みを今先取りしています。そこに教会誕生の神秘があります。復活と昇天の後、聖霊が降り、教会が誕生することによって実現する救いの恵みをイエスは予め語っておられるのです。この約束は、弟子たちのためだけではありません。今の私たちのためにも語られています。

「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる」 (19節)。

私たちは、復活して永遠の命を生きておられるイエスを信仰の目で見ています。地上の人生には様々な苦しみや悲しみ、不安や恐れがあります。そのような中でイエスは、「わたしが生きているように、あなたがたも生きるようになる」と語っているのです。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20節)。

それは、聖霊が降ることによって実現する恵み、今の私たちに与えられている恵みです。「父なる神とイエスが一体となって私たちの救いを実現して下さっていることを受け止め信じる事は、聖霊の助けなしにはあり得ない事だからです。聖霊は私たちを、御父と御子イエスに結び合わせる方です。そして、キリストの体である教会の枝として下さいます。イエスのもとに一つに結び合わされた教会がそこに築かれていきます。聖霊が降ることによって教会が生まれ、その教会に私たちも結び合わされているのです。

五月は聖母マリアの月です。母の日を迎えるお母様方の上に、教会の母聖マリアの特別な御保護と導きを祈りましょう。そして、私たちがマリアのように神の言葉を心に留め、それを生きる者となれますように…。

「わたしの愛に留まりなさい。わたしもあなたに留まり、そこでわたし自身を現す。」… このイエスの篤い思いが、私たちの心にも届いているでしょうか。