教会が宣べ伝えている福音の根本は、神が私たち一人ひとりを含むこの世を愛しておられるということです。初めから存在しておられたイエスは、すべての人を照らすまことの光として来られました。暗闇に覆われてしまったこの世の現実、そして私たちの現実を見つめながら来られたイエス。何か優れている訳でも、立派な者でもない私たちのために来られたイエス。しかし、そこに福音の中心的メッセージがあります。元々、神は良いものとしてこの世と人間を造り祝福されました。その祝福が失われたのは、自分の思いを通して生きようとする私たち人間の所為です。愛される資格などない私たちを神は愛して下さっています。しかもその愛は、独り子をお与えになるほどの愛です。

私たちの救いのために、神の御子が苦しみを受ける覚悟でこの世に来て下さる……、それは、私たちには信じがたい神の神秘です。私たちのために、十字架にかかって死ぬ覚悟で来て下さったイエス。そのイエスを、父なる神は復活させて下さいました。それによって、死を乗り越えて復活の命を生きる恵みが私たちにも約束されているのです。イエスの十字架と復活の神秘は、私たちの救いのために、なくてはならない大切なものです。神は、このような、とてつもない愛を私たちに注いで下さっている、それが福音の根本にあるメッセージです。地上の命はいずれ滅びてしまうものです。しかし、その限界ある私たちの現実がイエスを通して永遠の命に繫がっている…。そこに意味があるのです。イエスの約束によって、私たちは滅びではなく、永遠の命への道を歩むよう招かれています。そこを見つめながら、希望を持って地上の現実を歩むのです。

それにしても、不思議に思うことがあります。神の愛が語られているこの箇所に、どうして「裁き」とか「滅び」という言葉が何度も登場するのでしょうか。それは、私たちが神に愛されるに相応しい立派な者だから、この救いの約束が与えられたのではなく、私たちを愛して下さる神の愛の大きさゆえに与えられた恵みであることに気付かなければなりません。私たちは、基本的に自分の思いを中心に生きてしまう者です。その結果、心ならずも互いを傷つけ合い、苦しめながら生きている者です。その私たちに示されたキリストの生涯、とりわけ十字架の死と復活によって示された神の愛と救いの計画……、それは、私たちが一生懸命善い行いをしたとか、立派な人になるための努力によって得られるものではありません。イエスという存在があって初めて与えられる恵みです。神が私たちに望んでおられることは、この神の愛を受け入れ、十字架に死んで復活されたイエスに繫がることです。御子に繫がることなしに、神の救いにあずかることはできないからです。

ここで言われている「悪を行う者」とは、大それた罪を犯す人のことではなくて、光の方に来ないこと、光であられるイエスよりも闇の中に留まる続けることです。イエスの光に照らされることによってこそ、私たちは自分の現実にも目が開かれます。そこで、イエスの十字架による赦しの恵みが与えられるからです。逆に、「真理を行う者としての歩み」とは、立派な善い行いをして生きることではなく、光そのものであるイエスのもとに来て、その救いにあずかることです。そこで明らかになるのは、その人の行いの立派さではありません。神に導かれて生きる人の恵みです。神の愛を受け入れ、その救いの恵みによって生かされていくところに、真理を行う者としての歩みが始まるのです。

 元々私たちは、神の思いを知らずに生きているものです。その私たちに神は、御子を通して驚くべき恵みと新しい道を開いて下さいました。神が御子を世に送られたのは、裁くためではなく全ての人が救われるためです。一人も滅びることなく永遠の命を得て欲しいと願っているからです。そこに、特別な条件は何もありません。神は私たちへの愛によって全てを調えて待っていて下さいます。イエスの福音とは、この神の愛を受け入れ、イエスと共に生きることによって、私たちが、あるがままの姿で、永遠の命に至る道を歩む者へと変えて下さいます。立派な人間になることではありません。あるがままの自分の限界を捧げるのです。神は、そこに全ての人々を招いておられます。この復活祭に洗礼を受ける方々と心を合わせながら祈りましょう。

神である方が私たちと同じ人間性を取り、本来死ぬことのない方が死を体験する者となって下さった、という驚くべき神秘をパウロはエフェソ2章(第2朗読)で語っています。それこそ、神が愛によって私たちのために命がけで成し遂げて下さった恵みの出来事です。パウロが言うように私たちは、神の心をもって歩む者となるためにキリストにおいて造られた者です。限界ある私たちの中で働かれる神の存在に目が開かれますように……。