復活したイエスとの出会いを与えられた弟子たちが集まっていたその真ん中にイエスが来られ「あなたがたに平和があるように…」と語っています。信じられずにいる弟子たちにイエスはご自分の手と足を見せ、そして次のようにっておられます。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。

 イエスが逮捕され、十字架につけられたことによって弟子たちはイエスから引き離されていました。そのイエスが弟子たちの前に立っておられます。しかし、今日のイエスの言葉は、「これからはもう、以前のような仕方で、あなた方と共にいるわけではない」ということを前提に語っておられます。イエス復活の前と後では、弟子たちとの関わり方にも変化があるのです。復活したイエスとの関わりは、以前のように生活を共にするというものではありません。どうしてなのでしょうか。

 イエスを信じる信仰とは、そういうものなのです。今の私たちも、目に見える仕方でイエスと共にいる訳ではありません。以前の弟子たちは復活したイエスと、たとえ一時であれ、目に見える仕方で出会うことができました。しかし、私たちはそのイエスをこの目で見ることなしに信じ、目に見えないイエスと共に歩む使命が与えられているのですそれは大切な事です。どうして私たちは、復活したイエスをこの目で見る事が出来ない中でイエスへの信仰を生きなければならないのでしょうか。それは、「イエス昇天」の出来事と共に理解されなければならない信仰の神秘です。身体をもって復活したイエス、その身体において天に挙げられました復活から昇天までの間、イエスは繰り返し、繰り返し、目に見える仕方で弟子たちの前にご自身の姿を現されましたが、昇天後はもう、地上で目に見える仕方でイエスとお会いすることはなくなります

 同じルカによって書かれた使徒言行録19でも、イエスの昇天の事が語られています。そこでは、「彼らが見ているうちに天に上げられイエスは、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と書かれています。天に上げられたことによって、イエスの姿が目に見えなくなった、それが昇天という出来事なのです。この昇天以降、地上を生きる私たちは、イエスの姿をこの目で見ることはなくなります。そこに信仰の大切な意味があるからです。

 使徒言行録1章によれば、イエスの復活から昇天までの間は四十日でした。その四十日は、「まだあなたがたと一緒にいたころ」と言われている十字架以前の時代から、イエスの姿をこの目で見ることができなくなる昇天以後の時代への移行期間と言うことができます。その間、イエスはいろいろな機会に、目に見える仕方で、身体をもって復活されたご自身の神秘を現して下さいました。しかしそれは、継続的なことではなく、現れては見えなくなる、という仕方においてでした。そのような仕方でご自分を現すことによってイエスは、イエスの姿を肉の目で見ることなしに歩んでいくことになる準備を弟子たちにしておられたのです。そして徐々に、これからはもう以前のように目に見える仕方で私と一緒にいることはなくなる、ということを弟子たちにわきまえさせたのです。復活なさったイエスが、度々弟子たちに現われてられた言葉はイエスの昇天によって始まろうとしている新しい時代を迎えるための準備だったのです。私たちは今、イエスによってもたらされたその新しい時代の信仰を生きるよう招かれているのです。

 旧約聖書全体において示されている事は、イエスについてかれている神の約束がこれから実現していく、ということでした。すなわち、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということでした。メシアは、苦しみを受けて殺され、三日目に死者の中から復活する、その神のみ心を旧約聖書は語っていたのです。その預言がまさに今、イエスの十字架の死と復活によって果たされたのです。そしてこれから実現していくことは、「罪の赦しを得させる悔い改め」が、イエスの名によって「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。「あなたがたはこれらのことの証人となる」と弟子たちに告げられています。イエスによって実現した神の救いの出来事の証人として弟子たちは全世界に派遣されようとしています。全世界の救いを望まれた神の計画が、弟子たちを通して実現されていく、そこに神のみ心と計画があったのです。

 これらの言葉は、昇天後の新しい時代を生きていく人々のために、神から与えられた言葉でもあります。私たちが、信仰の目で見つめるべきことは、イエスが肉体をもってこの世に来られ、肉体をもって十字架に死なれ、肉体をもって復活なさったこと。そこで語られていることは私たちのための神の救いのみ業です。神の救いのみ業は、イエスが天に昇り、人間のからは見えなくなったことによって成し遂げられますイエス昇天の後の時代を生きる私たちは、目に見えないイエスと共に歩み、その約束を信じ、イエスによって与えられる罪の赦しの恵みを生きるのです。主の昇天以後の新しい時代を生きていく教会の役割と使命もそこにあります。そのために必要な聖霊の助けと導きを祈らなければなりません。イエスが約束された聖霊は、イエスの十字架と復活によって実現したこと、これから実現していくことを語っていますイエスに従って歩もうとする私たちの信仰が何であるかを知る恵みもそこから与えられるのです。聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開く主に、私たちも心の目を注ぎましょう。復活したイエスは聖書を悟らせるために心の目を開いて下さる方です。神の救いのみ心がイエスの十字架と復活において実現し、これからも実現していくことを本当に知るためには、神の助けが必要です。知識として知っているだけでは、信仰の恵みを知ることは出来ません弟子たちの目を本当に開いたのは、イエスご自身による働きがあったときでした。私たちの心の目を開き導くのは聖霊です。そこから、教会も誕生し新しい時代が始まりました。

 見える仕方においては弟子たちを離れていくイエスが、弟子たちに何をなさっているかの目を留める事は、信仰の神秘を理解する上で重要です。イエスは、いつも私たちを祝福しておられます。目に見えても、見えなくても……。共にいて下さるこのイエス、今もいつも、私たちを祝福しながら共に歩むことを望んでおられます。「あなたがたは、このことの証人となりなさい」……。これは、イエスが私たちに語っておられる言葉です。