イエスの時代、エルサレム神殿はユダヤ人たちの心の拠り所となっていました。しかし、神殿が破壊(紀元70年)された時からユダヤ人たちは信仰の拠り所を失ってしまいます。その時のユダヤ人を救ったのがファリサイ派の人々でした。彼らのお陰で、その後二千年に渡って、各地に散らされながらもユダヤ民族のアイデンティティーを失う事なく歩むことができたのです。イエスはその事を理解しながら語っています。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」
イエスは、律法を否定したり拒否したりはしていないのです。同時にイエスは、「彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」とも語っています。彼らの教えは正しい、しかし行いは見倣うべきでない、それは、彼らが、言うだけで実行しないからだと言っているのです。それはどういうことでしょうか。ファリサイ派の人々は、人に律法を教え、こうしなさい、ああしなさいと命じるけれども、自分ではその通りに生きていない、実行していない、ということでしょうか。しかしそれは違うはずです。彼らファリサイ派は、まず自分たちが律法をしっかりと守ってその通りに生きようと熱心に励んでいた人々です。だからこそ人々からの尊敬を受け先生とも呼ばれていました。教えるだけで実行しない人のところに、誰も相談に行きません。「言うだけで実行しない」という言葉の意味は、「彼らが背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」からということでしょう。律法を教え、それを生きるよう命じるけれども、結果的には人々の肩に大きな重荷を載せるだけで、その人がそれを背負って歩んでいけるようにはしてくれないのです。ファリサイ派の人々は、確かに律法を厳格に守って生きている人々です。しかしそのことが、律法を教わる人々にとっての力や支えにはなっていない。教えは正しいしいけれども、どうしたらその律法の指し示している目的に到達出来るかは教えてくれないのです。「それは、あなたの努力が足りないから」と片付けられてしまうだけです。それでは救いにはなりません。彼らは、何故そのような生き方になってしまったのでしょうか。「彼らがすることは、すべて人に見せるためだからである」とイエスは語っています。
どのようにして人に見せようとしていたのでしょうか。「聖句の入った小箱を大きくする」それは、出エジプト記13章8節にある、主の言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとせよ、という言葉を文字通りに受け止め、聖句の書かれた小さな紙切れが入った小箱を額や腕に付けて生活する、ということをしていました。彼らは、その小箱を大きくし目立つようにしていました。それによって、自分は神の言葉を額や腕につけていつも覚えている、ということを人々に見せようとしていたのです。彼らが人に見せようとしていることは、自分がいかに神の言葉を大事にし、それを覚え、守り行なっているか、という自分の信仰深さです。それと結びついているのが、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場で挨拶され、「先生」と呼ばれることを好む生き方、人々から尊敬され、重んじられることを喜びとすることです。「人に見せる」のはそのように自分の立派さや正しさを人に見せ、尊敬を受けるためだったのです。彼らが律法を守り、人々に教えているのはすべてこのことが目的になっていました。イエスはそれを見抜いておられます。ですから、彼らのしていることはすべて「自分のため」だったのです。律法を教えるのも、自分の立派さを示すためであって、悩んでいる相手のためではありません。それは、相手に重荷を負わせるだけであって本当の信仰にはならないとイエスは警告しておられるのです。
今日の福音を通してイエスが語っておられることは、自分の立派さを人に見せようとする生き方によって、人々から尊敬され、重んじられることを求める、そのために先生とか父と呼ばれることを求めることへの警告です。ですから、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉につながっていきます。自分が偉い者、立派な者であるように考えてはならない。むしろ、人に仕える者となり、へりくだる者となること、人よりも低いところに自分を置いて奉仕することこそが、本当の意味で、神に喜ばれる生き方なのだ、とイエスは教えておられるのです。高ぶりに陥っている間、人間は、本当に相手を助け、力を与え、救うことはできません。相手に重荷を負わせ、突き放すようなことにしかならないのです。
それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。「仕える者になれ」「へりくだる者になれ」ということだけであれば、別の新しい掟を教えるだけで、ファリサイ派と変わらないことになってしまいます。そして今度は、自分がどれだけ人に仕えているか、へりくだっているか、謙遜であるか、ということを人に見せようとして、そこでも、自分が偉い者、立派な者、人から尊敬される者になろうとして新たな高ぶりが生まれてしまいます。イエスの語る言葉の目的がどこにあるかを考えなければなりません。イエスは、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。それは、イエスが語られた山上の説教(マタイ6章)にヒントがあります。
「人に見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」とあります。「また、祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。
人に見てもらおうとして、施しとか祈りとか断食をする、そういう偽善者の姿が批判されています。それは、律法学者たちやファリサイ派の人々が、人に見せるために聖句の小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりするのと全く同じです。偽善者たちが人からほめられることを願う、それはファリサイ派の人々が宴会や会堂での上席を好み、「先生」と呼ばれることを好むのと全く同じです。イエスは、彼らの「高ぶり」の本質がこの「偽善」にあると見ておられるのです。
このような偽善に陥らないために私たちはどうすればよいのでしょうか。山上の説教において、偽善者たちの共通した姿が示されています。それは、「彼らは既に報いを受けている」ということです。偽善者達は、人に見せようとしてたくさんの善行をし、人から褒められ、尊敬される、そしてそれで満足している、ということです。
彼らは、神からの報いではなく人からの報いを求めているのです。彼らが見ているのは人間の目、人間からの評価だけです。これこそが偽善の本質なのです。偽善は、自分を実際よりも立派に、偉く見せようとすることから始まるのではないのです。むしろそれは結果として起ることで、根本的には、人の目、人の評価を気にする、そのことで心が満たされてしまうということから始まるのです。そのような偽善に陥る時、私たちのすることは、たとえ善いこと、正しいことであっても、自分の誉れのためとなるのです。またそこで私たちが語ることは、人を本当に生かすものとはならず、人に重荷を負わせるだけで、指一本貸そうとしないようなことになるのです。このような偽善、高ぶりから抜け出すための道、それをイエスは語って下さいました。本当に大切なことは、私を見守って下さる神の存在に気付く事です。その神のまなざしの中で生きる者となることこそ、偽善や高ぶりから私たちが解放されるためになくてはならない大切なことなのです。
神はどのようなまなざしで私たちを見てくださっておられるのでしょうか。私たちが信じている神は、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、そのイエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを赦し、新しく生かして下さる方です。つまり神の私たちを見つめるまなざしは、イエスによる罪の赦しの恵みのまなざしなのです。神は私たち一人一人を、独り子の命を与えて罪から救い出し、ご自分の民として生かそうとしておられるのです。私たちはどうしようもない罪人ですけれども、神は私たちのことをそのように大切に思っていて下さるのです。私たちはこの神の恵みのまなざしと、私たちのことを大切に思って下さるみ心の下に置かれています。その神の働きを見つめて生きる時、私たちは、人の目や人間からの評価を気にすることからも解放されます。そこで、ありのままの私たちが神に愛され、大切にされていることを知らされるのです。その時私たちは、人に重荷を負わせるのではなく、人の重荷を共に背負って歩む者に変えられていくのではないでしょうか。イエスの言う「へりくだる者になれ」とは、そういう意味なのです。