ファリサイ派とサドカイ派は、同じユダヤ教でありながら立場を異にし、何度も論争を繰り返えしていました。しかし、その彼らが一緒になってイエスを十字架へと追い込んでいくことになります。元々は、対立関係にあった両者が、イエスを十字架に追い込むことにおいては手を結び、結託していくものとなるのです。 「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。」(35節)
イエスを試そうとした「そのうちの一人」は、ファリサイ派に属する人です。彼は、イエスに「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねています。それに対してイエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。」と言っています。続けて、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と言っています。律法の専門家であるファリサイ派の人は、なぜこのような質問をイエスにしているのでしょうか。
「どの掟が最も重要であるか」という質問に対してイエスは、イスラエル人ならば誰でもが知っている掟をあげて答えられました。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6・4)これを、座っているときも、歩いているときも、寝ているときも、起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申命記6:7-9)
このように、イスラエルにおいては、全身全霊をあげて神を愛することの大切さが昔から語られていました。さらに、第二の掟として言われたのも、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」という戒めです。これは、レビ記19章18節にあるものです。イエスは、この戒めを第1の戒めと結びつけて語られ、さらに「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と語っておられます。
「律法と預言者」…、それは当時のユダヤ人にとって聖書全体を指し示す言葉です。聖書全体の教えがこの2つの掟にかかっている、とイエスは語っているのです。旧約聖書には色々な戒めが記されています。しかし、「神と人々を愛する」ということに全ては帰結する、とイエスは語ります。神への愛と隣人への愛という二つの基本的な戒めに聖書全体のエッセンスがあることに気付いて欲しいと語っているのです。ただ、掟や規則を守ればそれで良いのではありません。その目的が何なのかを知って欲しい、とイエスは願っているのです。
神への愛とは、目に見えない神を、全身全霊をあげて愛することです。隣人への愛とは、私たちの目の前にいる隣人を自分のように愛し、その人の重荷を自分の重荷として受け止め、共に担う生き方です。神との関係が縦の関係であれば、隣人との関係は横の関係です。気をつけなければ、神への信仰と私たちの生活は別々のものになってしまうことも少なくありません。けれども、イエスは目に見えない神との関係と、目に見える隣人との関係は、決して分離されるものではなく一つであることを教えています。
それは、「目に見える兄弟を愛さない者は、目身見えない神を愛することができません。」(第1ヨハネ4・20)と言われていることと同じ事です。私たちの神への信仰とは、まさにこの世における隣人との関係であり、隣人との関係は、その人の神との関係を表すものです。イエスは、この神との関係と隣人との関係の交錯するところに立っておられる方です。イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人です。この方が、十字架の苦しみを自ら引き受けながら、神と隣人を自分のように愛する道を教えて下さったのです。しかし、神の御子、自ら教えて下ったこの重要な生き方を、完璧に生きれる人などどこにいるでしょうか。日々の歩みを振り返って、私たちの現実はどうでしょうか。もちろん、私たちにも、神を愛したいという願いはあります。けれども、人間は神以外の多くのものに心を奪われ、愛を生きるにはあまりにも困難な、限界ある存在です。そこに私たちの本性があります。
隣人との関係においても同じです。私たちは自分を愛するように、隣人を愛しているでしょうか。隣人に対して愛を持って関わろうと意識しつつも出来ないものです。どんな時にも隣人を愛するというのは本当に難しいことです。私たちは神を愛することにおいても、人を愛することにおいても不完全な存在です。洗礼の恵みを頂いている私たちも、ファリサイ派の一人のように、イエスから遠いところで生きている者なのです。そのような私たちのためにイエスは、この世の憎しみの闇、人間の敵意による悪の連鎖の只中に降り、十字架の道を歩み抜いて下さいました。神である方が人となるとはそのような出来事です。十字架までの生涯を通してイエスは、究極の愛を示して下さいました。そこに私たちが招かれている希望があります。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、愛を通して律法を完成するためである」(マタイ5・17)。
このイエスを通して、律法の意味は根本的に変えられました。その目的は愛によって全てを完成させることです。旧約の律法を受け継ぎつつも、しかしそれを、全く新しいものにまで高め、完成されたのです。それは、人となられたイエスの生涯があって初めて成立つ話しです。
まさに、今日の福音はイエスが私たちのために十字架に向かって歩む最後の一週間に起った出来事です。イエスの受難の歩みの中で、この教えは語られているのです。神が、私たちのためにして下さった事は、単なる思いや願いだけでなく、ご自身の命の犠牲の上に示された私たちへの愛です。その愛を私たちはどのようにして生きる事ができるでしょうか。十字架上で示された神に出会うことなしに、この愛を生きる事はできません。イエスからその愛を分けて頂いきながら、神と人々を愛する力を頂くのです。しかも、そこでたくさんの失敗と諦めの体験を繰り返しながら頂く恵みです。