マグダラのマリアは、「朝早く、まだ暗いうちにイエスの墓に行った」とあります。何のために…でしょうか。それは、何かをするためではなく、ただイエスの近くにいたかったからです。たとえ亡くなったイエスであっても、せめてその傍にいたかったのでしょう。行ってみると、入り口に置かれていた大きな石が取りのけられていました。彼女は、墓の中を覗いて、イエスの遺体がないことを確認します。それで彼女は、シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と告げています。それを聞いたこの二人の弟子も、イエスの墓へ走って行きました。彼らが墓に入って見ると、そこには、埋葬の時に遺体を包んだ亜麻布だけが残されていました。これが、本日の箇所に語られている、イエスの復活の出来事の始まりです。葬られたはずの墓からイエスの遺体が無くなった。そのことを知った人々は、走り出します。マリアは、二人の弟子たちのところへ、二人の弟子たちも墓へと走り出します。

 マグダラのマリアは、イエスの墓の前で、静かに祈りたかったのです。イエスの墓を見つめながら、涙を流そうとしていたのです。イエスなしでは生きていけないマリアでした。今となっては、イエスを失った深い悲しみの中で、せめてその遺体の近くにいて、泣くことしか出来ません。愛する者の死において誰もが体験することです。ところが、墓の前にあった石は開かれ、イエスの遺体が無くなっている。それを見た彼女の心は騒ぎ出しました。

彼女は、何も分っていません。マリアから状況を聞いた弟子たちも同じです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と言っている通り、この時の彼らには何も分らない状況でした。誰かがイエスの遺体を盗んだ、としか思えない状況でした。この出来事を体験した彼らは、空の墓の前に座り込み途方に暮れるしかなかったであろう彼らは、次の瞬間、何かに向かって走り出しています。

 マリアは、イエスの墓の前で静かに泣くために来たはずでした。ペトロは、「何があってもわたしはあなたを裏切りません」と断言したにもかかわらず、イエスを三度も「知らない」と否みました。その挫折を抱えながら、深い悲しみと諦めの中で、また以前の漁師の生活に戻って行くしかなかったでしょう。他の弟子も同じです。普通に考える限り、彼らにとってイエスは、いつしか思い出の中の過去の人物となっていくしかなかったでしょう。しかし、空の墓を目撃した人々の様子は明らかに違っています。彼らは、何かにつき動かされるように彼らは走り出しています。走りながら、自分がなぜ、どこへ向かって走っているのかも分からないまま、彼らは走り出すしかありませんでした。イエスの復活を体験した人は、その意味が分らないまま、しかし私たちを内部から突き動かします。人間の考えを遙かに超えた予想外の出来事の中で、私たちはイエスに出会います。復活して生きておられるイエスの方から私たちに近づいて来て下さるのです。その出会いが、どのようなものであるかは一人ひとり違います。しかし、その出会いが、以後の人生を決定的に変えることになるのです。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)。これは、イエスの復活の知らせを聞いても信じなかったトマスに対して語られたイエスの言葉ですが、ここに、「見ないで信じる者の幸い」が語られています。これがヨハネ福音書の大切なメッセージなのです。

「イエスが愛しておられた弟子」とは、この福音書を書いたヨハネのことです。彼はイエスに愛された弟子として、見ないで信じる信仰の先駆けとなりました。「見ないで信じる幸いな者」とは、人間の努力によってではなくて、イエスに愛されることによって実現されることです。ヨハネ福音書は、「あなたがたも同じようにイエスに愛されているのだから、あなたがたも見ないで信じる幸いな者となることができる」という励ましを語っているのです。

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(9節)。「信じた」と言われているのに、二人共、イエスの復活を告げている聖書の言葉をまだ理解していなかったと語られているのはどういう事でしょうか。

 

理解するとは、神の救いのご計画の中にイエスの十字架の死と復活があり、それが実現したのだと分かることです。その神の救いの計画を彼らはまだ理解していなかったのです。しかしそれでも、「信じる」ということは起るのです。理解して初めて信じるのではありません。むしろ信じて歩む中で理解は深まります。それは決して、信じさえすれば理解しなくてよい、ということではありません。復活したイエスとの出会いによって、信仰は恵み、神の業であることをこの後理解するようになっていきます。

 イエスの墓が空であることを知った彼らは走り出しました。そして走っていく中で彼らは、復活したイエスに出会います。そして、神の恵みのみ心が分かるようになったのです。何のために、どこへ向かって走ればよいのかを理解しながら生きることが可能となったのです。

 神の救いの計画を知らされた彼らは、世界に出かけて行く者に変えられました。臆病で人目を避けて隠れていた彼らが、今度はイエスの復活を証しする者として、世界へと遣わされていくのです。イエスに愛されていた三人が、復活の光の中で体験したことはこのような事でした。私たちも、復活されたイエスの光に突き動かされて走り出すのです。それが信仰の始まりです。その中で神の愛が何であるかも分らせて頂くのです。