神の独り子は、私たちと同じ一人の人間として、母マリアによってこの世にお生まれになりました。生まれた幼子は布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされました。イエスの誕生は、この世の片隅において起った出来事でした。人々はその誕生を喜び祝うどころか、そのようなことが起ったことさえも誰も知りませんでした。誰からも顧みられない中で、神の御子イエスは生まれたのです。幼子の誕生に備える最低限度の準備もない中で、イエスはお生まれになったのです。しかし神は、当時の最も貧しい羊飼い達を通して、この出来事の意味を教えて下さいました。神が、その重大な出来事を伝える相手としてお選びになったのは、羊飼いたちだったのです。政治的にも経済的にも、決して影響力のある人々ではありません。一般の庶民です。ごく普通の人々を神はお選びになり、救い主の誕生を告げて下さったのです。彼らは、野宿をしながら羊の群れの番をしていました。多くの人々が寝静まっている夜中に、彼らは働いていました。そのようなこの世の働きのまっただ中にある人々を神は選んで、救い主の誕生をお告げになったのです。
「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」
神が羊飼いたちに、「恐れるな」と語って下さることによって、神との対話が始まります。日々の忙しい生活の中で、神様のことなど気に留めることもなく生きていた彼らです。そのような羊飼いたちが、この出来事に驚き戸惑ったのも無理はありません。神に選ばれ語りかけられる時、私たちは誰もがこの恐れを覚えるのです。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」
驚き、戸惑っている羊飼いたちに、神は大きな喜びを告げています。救い主キリストの誕生が、大きな喜びとして告げられているのです。
「この方こそ主メシアである」…。メシアとは、「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、この言葉をギリシャ語に置き換えたのが「クリストス」、キリストという言葉です。今日お生まれになった幼な子は救い主であるということです。この方の誕生によって、神の救いの約束が実現したのだ、ということが先ず知らされています。ここで天使は、これは「あなたがたのため」の救いの出来事だと告げています。だから「大きな喜び」となるのです。神に選ばれ語りかけられるというのは、この「大きな喜び」を告げられることです。私たち一人ひとりのための救いがここで告げられているのです。その神の選びこそ「大きな喜び」なのです。
「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである」。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子こそが今日生まれた救い主のしるし。そのしるしを頼りに、あなたがたは救い主を見つけることができる」と語っているのです。神は、貧しい羊飼いたちを選んで、彼らに大きな喜びを告げられました。羊飼いたちは、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。彼らは、乳飲み子イエスを自分の目で確かめることによって、この幼子が自分たちのための救い主であるということを確信しました。天使の告げた「大きな喜び」を、自分たちの大きな喜びとして受け止めたのです。神によって選ばれ、語りかけられ、大きな喜びを告げられ、それが彼らの喜びとなっていった…。これと同じことが私たちにも起っています。彼らは「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という思いによってベツレヘムへと出かけていく中で、救い主に出会いました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
自分のための救い主が与えられたという恵みをしるしによって示された羊飼いたちは、この天使たちの賛美の歌に合わせて歌っています。天においては神に栄光、地においては人々に平和…と歌うこの賛歌は、イエス・キリストによって実現する神の救いをほめたたえています。
「あなたは私の心に適う者」と宣言して下さる神の言葉によって、私たちは神のみ心に適う者とならせて頂けます。私たちがどういう人間であるかによってではありません。神との間に与えられたこの平和が先にあるからこそ私たちは、平和を築いていくための努力をしていくことができるのです。マリアは戸惑いながらも、この神秘を深く思い巡らしつつ歩んでいます。私たちも、イエスによる救いの恵みを心に納めて思い巡らしつつ、歩む者とならせて頂けますように…。