救い主誕生の話を聞いた人々は、皆不安を抱いています。これは不思議な事です。エルザレムの人々はヘロデの統治に脅えていたはずです。彼らこそは、真の救い主を待ち望んでいたはずなのに……。しかし彼らも、メシア誕生の話しを聞いて、ヘロデと同じように不安や恐れに脅えています。なぜでしょうか。
何か変化が起るとき、いつの時代でも人間は、自分が変わらなくてはいけないことを恐れます。エルザレムの人々は、新しい王によって自分たちが変えられることを恐れたのです。今までの自分を守りたいからです。ヘロデに反感を抱きつつも、自分が変えられることは望んでいません。だから彼らは占星術の学者たちの言葉を聞いて、自分が自分の人生の王でいられなくなることを恐れ不安を覚えたのです。
これは遠い昔の話しではありません。自分の人生の王であろうとしてする私たちに当てはまる話しです。人間は、自分の人生が思い通りにいかなくなるとき、自分の周りにいる人たちを批判し傷つけてしまいます。自分が自分の人生の王であり続けようとする限り、このような恐れと不安に駆られて生きることになるのです。
不安と恐れに駆られたヘロデは、祭司長たちや律法学者たちを集めて、「メシアはどこに生まれることになっているのか。わたしも行って拝みたいから…」と言っています。もちろんヘロデにその気は全くありません。その子を見つけて殺すためです。
占星術の学者たちと、祭司長や律法学者たちの違いに目を向けながらこの出来事を見るならばそこには大きなヒントがあります。ユダヤ教の指導者たちには、救い主がどこでお生まれになるのかが前もって示されていました。しかし彼らは学者たちよりも正確な知識と情報を持っていたにも関わらず、幼子イエスのもとに向かおうとはしなかったのです。幼子のもとに向ったのは、貧しい羊飼いたちです。この違いは何でしょうか。
変わりたくなかったのです。変って欲しくない人にとっては、全てが今まで通りの方が良いのです。ヘロデのもとで苦労しながらも、ヘロデの御機嫌を取りつつも、自分の権力や地位を守りたかったのです。だからみ言葉が与えられていても、救い主の正確な場所を教えられても動こうとしなかったのです。同じみ言葉が与えられても、そのみ言葉によって旅立つ者とそうでない者がいると聖書は語っています。それは知識の違いでも、社会的な身分の違いでもありません。神からの促しを受けて、変わらなければならない、そのために必要な導きと力を下さいと祈れるかどうか、そこに違いがあるのです。
キリスト誕生の出来事には、私たちを変えずにはおかない何かがあります。イエスとの出会いを通して今までの自分とは違う、新しい自分との出会いに私たちを旅立たせてくれる力があります。東の国からやって来た学者たちは苦労しながらも、探し求めていた幼子もとに辿り着きました。彼らが本当に変えられたのはそれからです。幼子イエスに出会うことによってです。
「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。
彼らはひれ伏して幼子イエスを拝みました。幼子イエスを礼拝したのです。それまで、自分の人生は自分のものだと思っていた彼らが、この幼子に出会って、この幼子こそ、自分の人生の王であると信じ委ねたのです。
私たちの人生は、自分のものではなくキリストのものです。自分の知識や経験を握りしめるのではなくて、それらを手放して、キリストに仕えて生きる者に変えられた者の姿がここにあります。救い主キリストを礼拝するとはそういうことです。
この時、彼らが体験した喜びは、単に幼子のいるところに辿り着けたというだけのものではありません。自分の、本当の救い主に出会うことが出来た喜びです。それは、自分を王として生きる歩みにはない喜びです。
ヘロデや祭司長たちは、幼子に会うために出かけるつもりは最初からありませんでした。彼らも、幼子イエスと出会っていたら変えられていたかもしれません。しかし彼らは動きませんでした。変わることを恐れたからです。
主の導きに信頼して一歩踏み出す時、主は私たちに出会って下さいます。自分を守るために握りしめている手を和らげた時、それまで持っていたものは、主への捧げ物に変えられます。あるがままの私たちの現実が、主と共に歩む人生へと変えられていくのです。