「私が、自分の父の家にいるのは当たり前だと言うことを知らなかったのですか。」
イエスの言葉です。ここで私たちが見つめるべき事は何でしょうか? それは、イエスが御父のことを「私の父」と呼んでいることです。この言葉を通して、イエスはご自分がどのような方であるかを示しています。イエスは、神の子に他ならないのです。イエスが多くの苦しみを受けて十字架の上で死なれたのは、御父のご計画でした。イエスが神の子であるとは、イエスがいつも父なる神との関わりの中に、その交わりの中にいるということです。イエスが、神の救いの計画の道を歩まれたということに他なりません。「わたしが、自分の父の家にいるのは当たり前だという事を知らなかったのですか。」
この言葉は、マリアとヨゼフだけでなく、私たちにも向けられています。私たちは、度々イエスを見失います。自分が考えていたイエスの姿とは異なるイエスに出会い、驚きます。マリアとヨゼフと、同じような心の痛みをもって打ち砕かれたに違いありません。
イエスは、ヨゼフとマリアに従い、この地上の人生を歩まれました。そのイエスの姿から私たちは大切な事を学びます。このイエスから、受難と十字架上の死、そして復活の神秘も伝わってきます。
この地上を歩む私たちのために、人間となって生まれて下さったイエスと共に、日々の生活の中で信仰を深める恵みを願いましょう。
そして神に対する確かな信頼をもう一度思い起こしながら、イエスを通して、世界の人々との絆を深める恵みをも願いたいと思います。
私たちは、イエスが神の子であることを知らされているにもかかわらず、しばしばイエスを見失います。そのような私たちに、イエスは仕えてくださり奉仕してくださっているのです。そのような私たちを救うためにイエスは来られたのです。このイエスに結ばれ、このイエスの恵みの中に導き入れられることが救いなのです。この招きに相応しく応えることの出来る恵みを願いましょう。そして、全教会のために祈る教会の使命を生きる者となれますように……。