「イエスはナザレに来て、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった」。(16節~17節)「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(21節)。

 イエスは、お育ちになったナザレに来て、会堂で教えておられます、その評判は、周りの地方一帯に広まります。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

 このイザヤの言葉について「あなた方が耳にしたとき、実現した」とイエスは語っておられます。 イエスは、神の救いの約束を実現して下さる方です。このイエスによって実現した福音……。それがイザヤで語られている「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」という言葉です。これが、イエスによって実現した福音の内容です。イエスの救いに与るとは、律法や掟を守って生きる事ではなくて、あらゆる束縛から解放されて自由に生きる者となるということです。しかし、この自由に生きることは決して楽なことではありません。ともすればその自由を失い、人の思いの奴隷になってしまう危険もあります。それでもイエスは、私たちを何かの掟で縛ろうとはせず、あくまでも真の自由と解放を与えようとされます。掟や戒律を守ることによって得られる救いは本当の救いではありません。結局それは、人間の努力や力によって得ようとするこの世的救いだからです。

神の御子であられる方が、一人の人間として生まれて下さったところから、神による本当の救いが始まりました。人間が努力して、道徳や掟を守って得られる救いではないのです。私たちが本当に自由な者として生きるためには、神の御独り子が人となり、私たち人間の全ての限界を身に受けて、十字架上で死んで下さることによって成し遂げられる恵みが必要だったのです。そこにこそ本当の救いがあります。この聖書の言葉は、今日 私たちが耳にした時、実現しています。イエスがこの世に来られ、活動を開始されたことによって実現された神の救いの約束。ここで言われている「今日」とは、「私たちがイエスの言葉に耳を傾けるとき」です。このイエスの声が、私たちの胸に深く留まりますように……。私たちの心に届きますように……。