今日の福音は、イエスの公生活が始まる最初の頃の出来事で、カナの婚礼と呼ばれる箇所です。そこには神から私たちへのメッセージが込められています。その席に、母マリアとイエスの弟子たちも招待されています。当時、婚礼の披露宴は一週間も続いたそうです。主催者側にとって、披露宴の最中に料理や葡萄酒が尽きてしまうという事は大変な失態です。様々な不安が広がる中、マリアはイエスに助けを求めています。マリアに対する「婦人よ」というイエスの言葉は、よそよそしい表現にも聞こえますが、これは目上の女性に対する尊敬を込めた、丁寧な呼びかけの表現でした。神のことばを伝え、神のみわざを行い、神の国の到来を告げるイエスの使命は、人間の思いや都合によって左右されるものではありません。

母マリアであっても、分らない事はたくさんあったでしょう。しかし、他のすべての人間と同じように、救い主キリストに自分を委ねています。マリアの言葉にイエスは不思議なことを語っています。「わたしの時はまだ来ていません」……。「わたしの時」とは、イエスの十字架、復活、昇天を通して実現されるキリストの時です。それは、人間が決めることではなく、神のみが定める特別な時です。

「見よ。その日が来る。その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元通りにする。彼らは荒れ果てた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる」……。旧約時代、メシヤが来られる時のことがこのように語られていました。(アモス9・13~14,エレ31・12、ホセア14・7参照)。

最後の晩餐でイエスは、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはない」とも語っています(マタイ26・29)。ぶどう酒や婚礼は、メシア時代到来のしるしです。この喜びの祝宴をもたらすために、イエスは世の罪を取り除く神の子羊として来られました。しかし、十字架の時は、まだ来ていません。これから行われようとしているイエスのみ業を暗示しています。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と語るマリアの言葉も重要です。受胎告知の場面においても戸惑いながらも、「私は主のはしためです。あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1・38)と語るマリアです。この後どうなるかわからない中で、イエスに信頼して、委ねて生きる大切さをマリアは教えているのです。イエスに出会う者の心においても、同じ事が起っています。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」なのです。(二コリ5・17cf.)。人間の努力や限界の先において起る奇跡。しかも、分らない中で、「あの方が言われる事は何でもしてあげて下さい。」と語るマリアの勧めは、私たちにとって非常に大切な言葉です。