「わたしはこの目であなたの救いを見た」

 毎年、主の降誕から40日後「主の奉献」の祝日が祝われます。幼子イエスが聖母マリア様と聖ヨセフ様とともに初めて神殿を訪れます。イエス様の生涯において、神殿は度々重要な場所として描かれます。12歳の時に3日間、その姿が見えなかったこと(ルカ2:41~50)はイエス様の復活までの3日間が早くも暗示されています。また「この神殿を倒してみよ。私は3日でこれを建て直す」ということばも復活を示すものです。(ヨハネ2:19~20)神殿は「父の家、祈りの家」であるとイエス様は宣言されており、その名は私たち教会の聖堂にも受け継がれています。そして、その場所で聖霊に満たされたシメオンとアンナに出会い、この幼子が救い主であることがこの二人の男女、アダムとイブを連想させる人物によって、人々に告げ知らされるのです。

 この二人はメシアの到来を待ち焦がれていた旧約時代の義人を代表する者として幼子イエスと出会います。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっており、主が遣わすメシアに合うまでは決して死なないとのお告げを受けていた」と記されています。シメオンは貧しげな家族に出会い、その幼子を見て、腕に抱き上げ、神をたたえて言います。「主よ、今こそお言葉のとおり、しもべを安らかに去らせて下さい。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とシメオンは賛歌を捧げます。

このシメオンとアンナはイエス様を受け入れるイスラエルの共同体を代表するものとなります。イエス様たちは「モーセの律法に従って、清めの期間を過ごした後に、初めて生まれた男の子を捧げるため」に神殿にやって来たのです。神殿には正しく、信仰の厚いシメオンが待っていました。アンナも神殿から離れることなく、夜も昼も神に仕えていた人物です。私たちもイエス様に会いたい、見たいと望むならば、「待つ」姿勢が大切です。それは何もせずにただ時を過ごすのではなく、神様のみ旨を思いめぐらし、隠れてお出でになるイエス様に気がつかなければなりません。

他の人々にはイエス・マリア・ヨセフの三人はどこにでもいるような平凡な家族にしか見えなかったかもしれません。しかし、心からメシアを待ち望んでいたシメオンには、この幼子とその母の姿に他の何者にも持ちえない神様との純粋で、光り輝いた絆をもっていることが感じられたのではないでしょうか?

 

[祈り・わかちあいのヒント]

*わたしたちはこの幼子を見て、メシアを感じることができるでしょうか?