洗礼者ヨハネは、イエスの道を準備する者として、悔い改めの印としての洗礼を授けていました。
「その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる。わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない」。
弟子たちは、聖霊を受けることによって、イエスこそが救い主であることを宣教し始めました。そこから教会が生まれます。聖霊と火とによる洗礼の恵みに私たちが与ることが出来るのは、人となられた神の御子がおられるからです。このイエスに繋がって、私たちの洗礼の恵みも働きます。イエスが私たちのために人となり、十字架において死んで下さった神であると信じる信仰は上から与えられる恵みです。
イエスの活動は、ヨハネから洗礼を受けることによって始まりました。そこにも大きな意味があります。神の子であられるイエスはただ一人、悔い改める必要のない方です。どうしてこのイエスが洗礼を受ける必要があったのでしょうか。
洗礼を受けたイエスに聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神からの語りかけが与えられています。悔い改める必要のない神の御子が、救い主として私たち人間と同じところにまで降りて来て下さったのです。そして、私たちの罪を引き受けて下さる方となられたのです。そこに聖霊が降ったと福音書は語っています。
イエスに降ったあの聖霊が弟子たちにも降り、教会を誕生させ、そして、私たちもこの救いに与る者として下さっているのです。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
イエスがこれから歩もうとする救い主としての使命を、御父が支えておられます。神から遣わされる主のしもべの使命は、何なのでしょうか。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。(イザヤ53章参照)。救い主と呼ばれるこの方は、人間を裁くのではなく、そして「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく……」その使命を成し遂げられます。
イザヤは、「主のしもべの使命」について語っています。主のしもべは、罪人のために身代わりとなって死ぬことによって、人々に罪の赦しをもたらす方です。「わたしの心に適う者」という上からの声は、イエスこそがイザヤが預言した「主のしもべ」であることを告げています。それは、十字架への道を歩むイエスの姿です。イエスが、ヨハネから洗礼をお受けになったのも、私たちの罪をご自分の身に背負うためです。そのイエスの思いを父なる神が受け入れ、「わたしの愛する子」と呼んでおられるのです。
祈っておられるイエスの姿を見なさい……とルカは指さしています。その祈りの中で、イエスは聖霊の力を受け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神からの語りかけを聞いているのです。
聖霊の働きと父なる神の愛に支えられながら、イエスは「主のしもべ」としての生涯を最後まで歩み通して下さいました。この方との関わり、交わりを生涯かけて深めていきたいものです。全教会の祈りに支えられながら……。