「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った……」。イエスによる救いの出来事は、先ず洗礼者ヨハネにおいて起ったことから始まりました。私たちは、先ずそこに目を留めなければなりません。ヨハネ個人の思いではなく、神の言葉がヨハネに降ったことによって始まった救いの出来事……。それは、神ご自身によって始められたものです。その舞台となったのは「荒れ野」です。そこから神の救いのみ業が始まっていきます。ヨハネは、「荒れ野に叫ぶ者の声」として登場します。

 「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに……」。

本来ならば、主が来られるまでに、曲がりくねった道は調えられているべきでしょう。しかし、まだ荒れ野のままです。人々の心は荒廃し、神の言葉を受け止める準備も出来ていません。私たちの心も同じです。自分自身の中に不満や妬みを抱え、そのような気持ちに振り回されています。神は、そのような私たちのためにイエスを遣わされました。このイエスの道を準備する者としてヨハネは遣わされました。彼が授けていた洗礼は「悔い改め」を意味するものです。イエスの名による洗礼とは違います。たとえ自覚がなくても、私たちは神に背を向けて歩んでいる者です。そこで私たちが見つめているものは自分自身です。周りの人々を愛の対象としてではなく、比較の対象と見なしてしまいます。妬みや憎しみもそこから生まれます。熱心に良いことしながら、語りながら…、これが人間の悲しい現実です。だから、「あなたの中の荒れ野に目を向けなさい」と聖書は語っているのです。無意識の中で、神に背を向けながら歩んでいる人間。誰もそこから逃れられる者はいません。この荒れ野から抜け出すために、どうすればよいのでしょうか。

 「悔い改めよ」というヨハネの言葉は「あなたの心の向きを神に向けなさい」ということです。その悔い改めの印として、彼はヨルダン川で洗礼を授けていました。

 私たちを愛そうとするこの神の思いが 私たちの心に届く時、私たちの中に「主の道」が整えられていきます。イエスによる救いのみ業が、一人ひとりの中で始まっていく時です。

 私たちは、まず 自分自身の中に「荒れ野」があることに気付きましょう。そこから救いが始まります。妬みや憎しみに傷つきながら私たちは愛を失っています。その現実をありのままに知るためには、神ご自身から来る光と助けがなければなりません。

 現実離れした理想を生きるだけでは意味がありません。今まで、自分の立場からしか見ていなかった目を神に向けて歩むところからイエスとの出会いの道が始まります。それを私たちが自力で切り開いていくのではありません。イエスの十字架と復活によって既に調えられている道をイエスは私たちに示してくださったのです。このイエスと共に歩むのです。イエスが先に切り開いて下さったその道を共に歩むところから何かが始まります。荒れ野…。それは、私たちを満足させるものが何もないところです。しかし、そこにイエスがおられるなら、荒れ野も恵みの場と変ります。

イエスを通して、すでに谷は埋められています。これは、私たちが知らなければならない大切なことです。救い主の降誕を待ち望む私たちの生き方が、旧約の律法に重きを置いたものであるなら、私たちにとって新約は 未だ始まっていません。主の御降誕がなぜ、私たちにとって喜びなとなるのか……、その意味を思い巡らすのです。それが待降節なのです。主イエスは、私たち一人ひとりの荒れ野で、今日も待っておられます。