「では、わたしたちはどうすればよいのですか」……これはとても大切な問いです。この問いを抱くことが、信仰への第一歩です。悔い改めるとはどういうことなのかがここに示されています。この問いに対してヨハネは、「施しをしなさい」と答えています。なぜでしょうか。悔い改めは、日々の生活の変化をもたらすからです。神に心の向きを変えることによって、日常生活が変わるからです。悔い改めに相応しい実を結ぶことがなければ本当の悔い改めとは言えないのです。
それまでは神を意識することもなく営まれていた私たちの生活が、神を意識し、その前での歩みが喜びとなるのです。その時 私たちは、自分に与えられているものを恵みとして受け止め、今まで 自分のことしか見ていなかった目が神の方に向きが変えるのです。
「わたしたちはどうすればよいのですか。」と問う徴税人の言葉は印象的です。悔い改めは、私たちの具体的な生活から始まります。
しかし、社会が複雑になればなる程私たちの生活も難しくなります。それでも、イエスの福音に心を向けながら、たとえ失敗があろうとも自分に出来る事を通して悔い改めに相応しい実を結ぶ生き方をヨハネは求めているのです。
規定以上のものを取り立てる徴税人や兵士による恐喝など、当時は当たり前のことでした。そのような中で、神に心を向け変えた者として悪事から離れるのは大変なことであり、仲間外れにされるようなことにもなったでしょう。しかし、イエスの言う悔い改めとは、そのような具体的な日常生活の中で神の方を向いて生きる者となることなのです。
ヨハネはこのように、人々に悔い改めを求め罪の赦しにあずかる印である洗礼を授け、新しい生き方を人々に示しました。人々は、「もしかしたらこの人がメシア(救い主)ではないか」と思ったほどです。人々は救い主を待ち望んでいました。
しかしヨハネは、「わたしはメシアではない。わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」(16節)と語っています。ヨハネは「自分よりも優れた方」の到来を意識し、そのための準備をすることこそが自分に与えられた使命であると弁えていました。後から来られるその方こそイエス・キリストです。ヨハネは、このイエスのために道を整える使命を果たす、荒れ野で叫ぶ者の声だったのです。
ヨハネは、神に背を向けて生きている人々の心を神に向けようと努力しました。そのために、自分の現実を知ることが大切だと訴えています。その悔い改めが、人々の生活の中にどのように実を結ぶのかが徐々に明らかにされていきます。
ヨハネよりも遥かに優れた方であるイエス・キリストによる救いの恵みが、どれ程大きなものであるかを私たちは既に教えられています。その救いの恵みについて、ルカは今日の福音の中で語っているのです。ヨハネよりもはるかに優れた方であるイエスによって、既に救いが実現していることを私たちは知らされています。私たちが受ける洗礼は、このイエスの十字架と復活による救いの恵みにあずかる恵みです。イエスによる救いの恵みに与っている私たちだからこそ、本当の悔い改めの生き方が必要なのです。イエスによって私たちは、神の祝福のもとに生かされ、その恵みの中で生きることができるようになりました。その恵みを知った時、自分に与えられている恵みの用い方も変わってきます。
個人ではどうすることも出来ない社会の構造的仕組みや限界の中に置かれていながら、それでも……その中で自分に出来る僅かなことを通して神の国実現のために、イエスと共に働くことができるのです。与えられている恵みを人々のために用い生きることができるのです。ヨハネよりもはるかに優れた方であるイエス・キリストの恵みの中で、私たちは、ヨハネが教えた悔い改めにふさわしい実を結ばせることができるのです。そのためには、このイエスを見失わないことです。このイエスと共にあるとき、私たちの欠点や弱ささえも神の恵みを証しするものに変えられます。